【ABC特集】「爆弾が雨あられのように…亡くなった方が池に浮いていた」6度の空襲で1496人が死亡 「明石空襲」知られざる記憶【終戦79年】
ことしで終戦から79年。太平洋戦争末期には東京や大阪など大都市を狙った空襲が相次ぎましたが、兵庫県明石市でも6度にわたって大規模空襲があったことはあまり知られていません。 ーー悲惨な歴史を忘れてはいけない。 その思いは79年の時を経て、確実に次の世代へとつながっています。 数々の資料や体験者の証言をもとに、明石空襲の知られざる記憶をたどります。
4歳で空襲に…今も残る鮮明な記憶
兵庫県明石市。大阪や神戸のベッドタウンとして近年人口が増えており、子育て世代にも人気の街です。 矢野 蓉子(やの・ようこ)さん、84歳。明石市内で生まれ、4歳の時に空襲にあいました。
酒の「卸小売り業」を営んでいた祖父母と、両親・妹のあわせて6人家族だった矢野さん。 次第に「お国のため」と戦争の色が濃くなっていく様子を、子どもながらに鮮明に覚えているといいます。 (矢野さん)「神社に武運長久(の祈願)に行ったり、爆撃の時に目玉が飛び出さないよう、目と耳を塞ぐ対処練習に(行ったり)」
狙われた軍需工場 兵庫県下で初の本格空襲
終戦の年にあたる1945年1月19日。兵庫県下で初めてとなる、本格的な空襲が明石の街を襲います。 当時明石には、戦闘機をはじめ鉄鋼や防毒機器などを製造する軍需工場が数多く存在していました。この空襲はその工場を標的としたものだったのです。
(矢野さん)「『空襲警報!空襲警報!』とラジオで。『淡路の上空を何機か北に向かっています』といった途端に上に来ている」 当時4歳だった矢野さんは、急いで自宅の防空壕へと逃げ込みました。 (矢野さん)「怖いよ~。ドーンと音がした。防空壕はこれくらいの幅かな。家と一緒で柱があるのだけど(爆撃で)バーンバーンとなった」
投下された爆弾は610発。周辺地域をあわせて、犠牲者は322人にのぼりました。 中には学徒動員として戦闘機の製造工場や関連施設で、働いていた10代半ばの若者たちも大勢いたといいます。 (矢野さん)「(街の写真を見て)向こうの方に爆弾が落ちたんやろうね。人がざわざわしているから(防空壕を)出たら、戸板の上に男の人が上を向いて寝ていて片足が上がっている。あの人はけがしている、悪くなっている人というのは印象に残っている」 明石の街は終戦を迎えるまでの半年あまりで、6度にわたる空襲を受けることになるのです。
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