【ABC特集】「爆弾が雨あられのように…亡くなった方が池に浮いていた」6度の空襲で1496人が死亡 「明石空襲」知られざる記憶【終戦79年】
戦跡めぐりで14年間ガイドを務める84歳男性
「この上の方から、多分艦載機と思われる飛行機が飛んできてね」 牧野 満徳(まきの・みつのり)さん、84歳。5歳の時、姉の通っていた小学校の近くでアメリカ軍の戦闘機から激しい攻撃を受けます。 (牧野さん)「私と一緒にいた姉が機転を利かせて、ここにあった溝に『逃げよう』と二人で逃げ込んだ。艦載機がここに降りてきてドンドンドンと機銃掃射、機関銃のようなもので弾を撃ってきた。九死に一生を得たというか命拾いをした」
牧野さんは現在、ボランティアで市の観光ガイドをしながら、明石空襲や戦跡についてガイドをしています。 (牧野さん)「(観光客が)歩きながら戦争の跡地巡りをできたらな。『牧野さん知っている範囲でいいから教えてくれる?』ということで(戦跡)ガイドをしだしたのがきっかけ」 2010年、市民団体による「明石の戦跡をめぐる」催しがスタート。牧野さんは依頼を受け、初回からガイドを務めてきました。 (牧野さん)「回を重ねるほど自分自身でも勉強するし、いろんな人に教えてもらった。かれこれ十何年、(戦跡)ガイドをしている」
「爆弾が雨あられのように…池に遺体が浮いていた」2度目の空襲 避難場所に降り注いだ爆弾
ガイドをする中で、よく立ち寄る場所があります。 (牧野さん)「明石公園でも昭和20年の6月9日、2トン爆弾が落ちて269人が亡くなった」 兵庫県立明石公園は、野球場など様々な運動施設が整備された憩いの場所ですが、戦時中は全く違う光景が広がっていました。
(牧野さん)「ここの芝生広場は食糧難を解消するために芋をいっぱい植えていた。浅い池は全部田んぼになった」「この東側はお堀になっている。こういう土手なんかに防空壕が掘られていたのではないかと」 明石公園は、空襲警報が発令された際の広域避難場所に指定されていました。そのため公園内には30ヵ所の防空壕があったといわれています。
1945年6月9日、2度目となる空襲では、大型爆弾72発が明石公園周辺に投下されました。 (牧野さん)「列車から降ろされたお客さんも、明石公園に避難していたところへ爆弾が落ちてきた」 通勤途中の人や周辺住民が公園に殺到。爆撃や生き埋めなどによって、多くの一般市民が犠牲になりました。
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