大切な葬式の日に息子が初オネショ…シングルファザー住職の「二足のわらじ」奮闘記
私だって、本堂での朝勤行を今まででいちばん真剣につとめたのは、父親の手術前だからである。手術当日まで、朝勤行は檀家さんの先祖供養よりも、ひたすら父親の病気平癒を祈る時間だった。世間一般では仏壇のない家庭が当たり前の時代に、私は祈るための空間のなかに住まわせてもらっているのだから、なんと恵まれていることかと知った。 しかし、断捨離して穏やかな生活を過ごすのも、神仏に祈りながら暮らすのも、誤解を恐れずにいうと、現実逃避的であるのは否めない。たとえば本堂にこもって坐禅や念仏をしているあいだは、育児や家事からも解放されてメンタルが調うだろう。だが、いざ家庭の生活に戻れば、山積みになっている調理や洗濯などのタスクは、坐禅や念仏で時間をロスした分だけ余計に私の心身を苦しめる。 ● 「考える禅」と 「考える育児」 では、私はいかにして仏教を生活の中で用いているのか。 まったくお坊さんらしくないやんちゃな生き方をしながら、お坊さんとして胸を張って生きていられるのはなぜか。 私は仏教を「考える宗教」だと理解していて、「考える禅」を日々実践しているつもりで生きている。 「考える禅」というのは耳慣れない言い方だろうが、たとえば男女間の関係がもつれにもつれた時、「別れようかなぁ」「今の相手とやり直そうかなぁ」と悩んでいる時は気分が晴れない。
しかし、「この相手とやり直すのは無理」と考えが整理できた時には、同時に別れを切り出す決心がついているし、その後に待ち受ける新しい生活をスタートさせる覚悟もできている。この心の状態はまさしく「禅」の境地である。 つまり、私が「考える禅」という時、考えて目の前の課題を解決することで、自分自身の心も、そして社会全体をさえも、禅の穏やかな境地で包んでいくことを意味している。これまでも、お坊さんとしての常識にとらわれずに「仏教かくあるべき」を突き詰めて考えることで、仏教界を包んでいた閉塞感を打ち破ってきた。シングルファザーとしても、「考える育児」を心がけていけば、自分自身の心のなかも、家庭の環境も好転していくにちがいないと信じていた。 ● 経典から学ぶ 「正しく生きる」の意味 このような仏教理解は、日本においては珍しいと思う。しかし、仏教が「正しく生きる」ことを説いたのは言うまでもないが、「正しく生きる」ために重んじたのは「考える」ことである。『スッタニパータ』という最初期の経典を読むと、お釈迦さまは人間の「知性」を信頼していたことがうかがえる。 苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々――かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。(『ブッダのことば』中村元訳、岩波文庫)