大正十年代初頭の西洋認識の一端、臨場感にあふれた筆致で再現―和田 博文『漫画家が見た 百年前の西洋 ――近藤浩一路『異国膝栗毛』の洋行』張 競による書評
◆他者へのまなざし、映し出された自己 西洋見聞録のたぐいは幕末にさかのぼるが、その多くは遊記や日記という様式で記されている。文化交渉史の資料としてこれまでも注目されてきたが、そのほとんどが文字による記述である。 近藤浩一路(こういちろ)の『異国膝栗毛』は文章とともに、視覚的な印象が絵で表象されているところに特徴がある。一頁の文章に対し、平均して一枚の漫画が配されており、文字の記述も滑稽本の表象趣向とのつながりをほのめかしている。 写真と違い、漫画には誇張があり、諷刺があり、さらには遊びも笑いもある。写実的な部分と劇画的な部分をどう見分けるか、諧謔(かいぎゃく)という心理の迷彩を見透かし、他者に向けるまなざしと文化の自己定義をどう読み解くかで、批評者の眼識と手腕が問われることになる。 重層的な情報が入り組んだテクストと相対して、著者が取った手法はいたって正統派的なものである。欧州旅行について、近藤浩一路はほかにも随筆を書いたことがある。『異国膝栗毛』を検証する場合、重要な傍証として生かされている。いっぽう、同行者の証言や旅行案内、統計数字など同時代の史料も丁寧に調べられている。そうした地道な作業によって、大正十年代初頭の西洋認識の一端は臨場感にあふれた筆致で再現された。 大正時代について人々のイメージはまちまちである。未完成の近代と見られることもあれば、現代の発端という人もいる。歴史的過去を振り返るとき、異文化体験というレンズをあいだに置くと、思わぬ風景が現れてきた。 幕末や明治前期にパリを訪れた日本人は一様に欧米の物質文明に圧倒された。ところが『異国膝栗毛』の精緻な読みを通して、大正十年代の西洋文明観には変化が起きたことがわかる。「一等国」の仲間入りを果たしたという自意識が膨張し、パリを見るときも、ロンドンを見るときも、もはやお上りさん気分一辺倒ではない。第一次世界大戦に敗戦したドイツに対してはむしろ上からの目線で眺めていた。 ただ、欧米列強と肩を並べたとはいっても、物質文明において落差はすべて解消されたわけではない。東京の地下鉄はまだ開通していなかったから、パリの地下鉄を見ると、やはり嘆声をもらしている。大正十年、日本の自動車台数は一万二一一六台を記録するも、パリに来てみたら、四方八方から湧いてくる車の洪水にはびっくりした。東京にも三越、白木屋、松坂屋といった近代的な百貨店はあったが、パリのデパートの大きさと品ぞろえの豊富さを見て歯ぎしりをした。 画家の目に映った欧州の事象も興味が尽きないが、渡航前のドタバタはマジックミラーのように、欧米文化に対するアンビバレントを映し出した。近藤は漫画記者としてサラリーマン生活を経験したが、欧州渡航の前に背広も革靴も作ったことがないし、身に着けたこともなかった。西洋料理は食べるどころか、料理名さえ知らない。パン食からホテルの利用法まで一から練習しないといけない始末である。大正十年代のはじめになっても洋風化は庶民の日常から遠く離れたところにあった。そのことが西洋体験の副産物として炙り出されている。 [書き手] 張 競 1953年、中国上海生まれ。明治大学国際日本学部教授。 上海の華東師範大学を卒業、同大学助手を経て、日本留学。東京大学大学院総合文化研究科比較文化博士課程修了。國學院大学助教授、明治大学法学部教授、ハーバード大学客員研究員などを経て現職。 著書は『恋の中国文明史』(ちくま学芸文庫/第45回読売文学賞)、『近代中国と「恋愛」の発見』(岩波書店/一九九五年度サントリー学芸賞)、『中華料理の文化史』(ちくま新書)、『美女とは何か 日中美人の文化史』(角川ソフィア文庫)、『中国人の胃袋』(バジリコ)、『「情」の文化史 中国人のメンタリティー』(角川選書)、『海を越える日本文学』(ちくまプリマー新書)、『張競の日本文学診断』(五柳書院、2013)、『夢想と身体の人間博物誌: 綺想と現実の東洋』(青土社、2014)『詩文往還 戦後作家の中国体験』(日本経済新聞出版社、2014)、『時代の憂鬱 魂の幸福-文化批評というまなざし』(明石書店、2015)など多数。 [書籍情報]『漫画家が見た 百年前の西洋 ――近藤浩一路『異国膝栗毛』の洋行』 著者:和田 博文 / 出版社:筑摩書房 / 発売日:2024年02月16日 / ISBN:4480017925 毎日新聞 2024年3月16日掲載
張 競
【関連記事】
- 東洋的な綺想、「桃源郷」の探究成果を一巻にまとめて世に問う―芳賀 徹『桃源の水脈―東アジア詩画の比較文化史―』張 競による書評
- 「しようがねえよ、その通りなんだから」と深沢の声がきこえてくる―深沢 七郎『深沢七郎集〈第2巻〉』辻原 登による書評
- 公文書を書き換え、事実を隠蔽し、上司を忖度、官僚の姑息な悪癖の原点―渡辺 延志『日清・日露戦史の真実 ――『坂の上の雲』と日本人の歴史観』橋爪 大三郎による書評
- 日本の近代と資本主義を用意した基礎は中世にある。自分の足元を見つめる古典の復刊だ―佐々木 銀弥『日本商人の源流』橋爪 大三郎による書評
- 鉄幹の観念的浪漫、晶子の熱情、時代を代表する抒情とその烈しさ―永畑 道子『鉄幹と晶子 詩の革命』辻井 喬による解説