5~8番ホームが「欠番」となった日暮里駅のナゾ
明治の俳人・正岡子規との縁
東口や日暮里・舎人ライナーの乗り場とを結ぶ昇降設備の横には、小さな出口がある。これが北口で、外へ出ると線路上を横断している橋が待ち受ける。「下御隠殿橋(しもごいんでんばし)」という、たいそうな名の橋だ。横断し反対側の欄干(らんかん)から前方を見やれば、またとない鉄道のビュースポットである。山手線はちょっと遠いけれど、新幹線、尾久へ向かう東北線、そして常磐線が手に取るように眺められるのだ。親に抱かれた幼子が、じっと見入っている場面に出くわすことも少なくない。 橋を山側(西側)の方向に進むと、そこにも駅の出入口がある。ここは西口で、目の前の坂には「御殿坂」の標柱が立つ。鉄道が敷かれ日暮里駅が開業したため、台地が削られて坂の下半分は消滅してしまった。以前は、東口の地平面のあたりまで坂がつづいていたのだろう。西口から一歩を踏み出せば、そこはもう台東区で谷中の入口である。 御殿坂は上がらず、駅構内に沿った道を南方向へ下ると、今度は「紅葉橋(もみじばし)」と名づけられた跨線橋(こせんきょう)が現れる。橋は東西を連絡する自由通路となっており、途中にトンガリ屋根の駅舎がある。こちらは南口。日暮里駅には東西南北すべての出入口がそろっているのだ。 構内に並行する道は跨線橋ぎわで途切れ、「紅葉坂」と案内のある坂を上れば谷中霊園の一角だ。墓所の縁に沿ってなるべく線路から遠ざからぬよう道を選ぶと、やがて「芋坂(いもざか)」の標柱に行き当たる。付近で山芋が穫(と)れたことに因(ちな)むというが、ここにも細い芋坂跨線橋が渡されている。注目すべきは橋を支える橋脚(きょうきゃく)だ。古レールをY字状に加工して並べてあるだけなのだが、幾何学的な連続模様が美しさを醸(かも)しだしている。 江戸から明治初年の鉄道が通る前は、やはり芋坂がだらだらと東側の地平へと下っていたにちがいない。地平の突き当りには善性寺という徳川将軍家ゆかりの寺。その向かいに1819(文政2)年の創業にして、正岡子規や夏目漱石ら文人にも愛されたと伝わる団子屋がいまも店を構える。子規が命の炎を燃やし尽くした台東区根岸2丁目の旧居「子規庵」までは、歩いて5分とかからない。 「芋坂も団子も月のゆかりかな 子規」
辻 聡