能登半島地震の体験と珠洲原発の恐怖 落合誓子[ノンフィクションライター/珠洲市在住]
半島に残る志賀原発は鬼門
実際、能登半島の西端、半島の付け根に位置する志賀原発は今回深刻な被害を受けている。 あまり知られていないが、志賀原発の型は「マークワン」。あの福島と同型の原発だ。福島の少し後に計画されたが激しい反対運動で暗礁に乗り上げて時間がかかってしまったのだ。 その間に次々と型も更新されて新しい原発があちこちにできていく。機種の更新をしたくても、その「マークワン」で国の許認可の全てが成り立っているのだ。 機種を変えたらまた一から認可を取り直さなければならない。延々と続くはずの反対運動を考えたら北陸電力もそのまま突き進むしか方法がなかったのだという。 その根強い反対運動が法的根拠にしたのが「敷地の中に走る活断層」の疑いという、今回の地震と深く関わる深刻なテーマだった。その反対運動の根拠の活断層を巡っては金沢地裁から運転の差し止めを命じられ、控訴が続いて現在に至っている。 止まってはいても、使用済み燃料が燃料プールには在るのだから、冷却し続けなければならない。原発内の当時の揺れは震度5と公表されているが、外部から電気を受ける際に使う2号機の変圧器は、配管などが壊れておよそ1万9800リットルの油が漏れ出し、一部が海に流出した。 もともと原発は「強固な地盤」のあるところに建てるというのが謳(うた)い文句で、珠洲市の予定地のみならず、志賀町の志賀原発も、どこも「強固な地盤」であったはずではなかったのだろうか。ちなみにこの地震で半島の先端を中心にして85キロにわたって隆起した。その一方の端がじつは志賀町地内であったことを申しそえておこう。
私たちの原発反対運動は終わらない
5月14日、志賀原発の「差し止め訴訟」を久々に娘と傍聴した。この地震を体験した今、論理的には「能登に原発は無理」。誰にでもわかるこの「事実」の筋道を壊す論理はどこにもない。地元の人たちの「積極的に再稼働を求める声」も急速に萎(しぼ)んだという。 珠洲原発の反対闘争が終結してから、もう何年たっただろうか。私たちの子どもたちは小学生の頃から反対運動と共に育った。反対運動が40日以上も市役所を占拠した時は、その市役所の会議室が子どもたちの遊び場だった。 学校から帰ったら家に帰る前にまずランドセルを担いだまま市役所の3階会議室に行く。親に会うにはそれが確実だということを知っていたからだが、そこに集まってくる先生方に宿題を見てもらったり、学区の違う友だちをたくさん作ったり、そんな人たちが彼女たちの人間関係を今も彩っている。 裁判に初めて同行した娘は志賀原発の闘いがまだ続いていることに、あらためて驚きを持ったらしい。 「お母さん、傍聴者はみんな年寄りばかりやったねぇ。今度の地震を経験してわかったことは志賀原発が事故を起こしたら逃げられないのは奥能登に住む私たちやー。私らの世代もあんたたちの仕事を本気で引き継いでいく覚悟をせんとね。生きていくのは私らやからー」 あの凄まじい抗争を子どもとして体験した「反原発二世たち」の共通の気持ちだと私は思う。 今度の地震がもたらしてくれた唯一の財産は若い子たちの「こんな覚悟」だったかもしれない。 「能登半島は太古から、隆起を繰り返してできた半島です。今回の隆起は半島の成り立ちを考えれば当然のこと。原発など無謀というほかはありません」 新潟大学の立石雅昭名誉教授の言葉はすべてを言い当てていると私は思う。