能登半島地震の体験と珠洲原発の恐怖 落合誓子[ノンフィクションライター/珠洲市在住]
原発は能登半島の墓標
1989年の市長選挙を事実上の「闘い始め」として、私たちは「珠洲原発」の是非をかけた。 その選挙は勝てなかったがそれからが熾烈(しれつ)な闘いだった。2003年の凍結発表まで市民が2つに割れて、全面戦争が繰り広げられたのだ。その時にいつも問題になった1つは、やはり、事故が起こった時の「逃げ道」だった。 「もし原発ができて、事故が起きたら家族を全部連れて俺の家に来い。船で逃げてやるぞ」 「そうや1艘で乗れんかったら俺もおるぞ。あんたらをみんな船に乗せて逃げてやるからなぁ」 漁師さんたちとそんな冗談を言いあっていたことがあったのを、その時私は思い出していた。これらの話は「ただの冗談話」だが、考えてみればその時、私たちは地震による原発事故などまるで考えたこともなかったのだ。 海辺の街で、実際、震度7を経験してみると、係留してあった船は、港が隆起して動かせないか、津波でほとんどが沈んでしまっている。 飯田港でもたくさんの船が湾の中に底を見せて沈んでしまったのだ。沈む前に運良く艫綱(ともづな)が外れた船はなんと佐渡の近海まで流れていったという。 今回の経験で言えば、地震があった後は、道は裂けてズタズタ。谷が行く手を阻む。車で移動することなど論外。能登半島は半島の付け根に行くしか逃げ場はない。大平野が広がる場所で起きた東日本大震災の時とは状況は違うのだ。陸路で逃げようとしても道は限られている。放射能まみれの人など、規制線が張られて奥能登から外に出ることさえできなくなるに違いない。 万が一、逃げられる船が1艘や2艘あったとしても、汚染地からやってきた船なのだ。私たちは簡単に陸に降ろしてもらえるのだろうか。防護服に身を包み、ガイガーカウンターを持った人たちが待っているに違いない。 奥能登の場合は地震による原発事故で被災した町からの逃げ道など本当は「どこにも無かったのだ」という事実を心底噛み締めたのが今回の地震だったといえる。