能登の状況は明日のあなたの街かもしれない 落合誓子[ノンフィクション ライター/珠洲市在住]
行き慣れた友人の家が見つからない
狭い路地を曲がりながら海の方へ降りていくと右角に壊れた家が見えてきた。「確かこの辺りだったが…」。なかなか確信が持てない。まるでテレビで見る爆撃された街さながら……。家を特定するための目印になるところが全部壊れているのだ。 近くまで来たついでにちょっと寄って帰ろうかと海に向かって降りてみた。蛸(たこ)島漁港のある町に住む友人の家である。 「角にある家」と「玄関の石段」という目印に照らしてみる。やはりどうみても目的の家は「此処しかない」。 秋祭りの夜に訪ねてからもうどれだけ経っただろうか。コロナ禍や相次ぐ地震で最近は少しご無沙汰していたかも知れない。蛸島の秋祭りは「キリコ祭り」と呼ばれている、珠洲の代表的な祭りで、知る人ぞ知る。極彩色の絵に灯の入った大きな法燈(キリ コ)を担いで町を練り歩く。その優美さは能登でも一~二を争うと、ファンが多い。鉦(かね)と太鼓に合わせた、ゆったりとした掛け声と共に、右に左に傾いて揺れながら進む、そんな蛸島のキリコ祭りは珠洲に住む私たちの誇りだ。 石段に倒れかかった座敷の屋根。あの屋根の下で私たちは毎年、9月の10日。楽しい宴に酔いしれた。 その住宅に住んでいたのは反原発の同志。蛸島は奥能登一の漁港がある港町だ。もちろん珠洲の漁港を束ねる蛸島は反原発の最も重要な拠点の一つ。中学校の教師をするかたわら、彼は漁師と私たちを繋いでくれた大切な仲間だった。 元旦の夕方を襲った震度7のあの大地震。彼の兄弟も集まっていたかも知れない…近所の人も訪ねて来ていたのかも知れない…。酒も入っていたに違いない。この家の現状をみると、よくぞあの中で、彼は奥さんと共に「生き延びた」と思う。「能登半島地震」と名付けられた元日の午後4時10分。その時から私たちの暮らしは大きく変わったのだった。
「瓦礫の撤去が異常に遅い!?」
「瓦礫(がれき)の撤去が過去の他の被災地と比べて異常に遅れている」 そんな報道を耳にすることが多いこの頃。確かに何処を回ってみても瓦礫の撤去がほとんど進まない地区が多い。そこで、珠洲市全域を隈なく回って調べてみた。確かに地震直後とさしたる変化はないが、強いて言えば昔の国道沿いが少し進んだのかも知れない。 しかし、私の住む珠洲市の中心市街地、飯田町は少し様子が違う。ここ1カ月ほどで散乱していた壊れた家の瓦礫が少しは片付いた。他の地区に比べると格段の速さのように見える。しかし、ある種のルールに乗って、順番に整地しているようにはとても見えない。チョット見回してみると少しづつその意図が見えてくる。瓦礫が撤去されて、整地された所に仮設住宅ができているのだ。 学校の運動場や公共の駐車場などの一部に仮設住宅が建ち始めたのは2月上旬というから、早いところは早かったのだと思う。 しかし、飯田町の小学校は小高い丘(春日山)の上にある。避難所はその小学校の校舎だったが、その運動場に仮設住宅を置くのは、さすがにどう考えても無理がある。山の上では車のない年寄りにはとても、「長く住むこと」は難しい。壊れた自宅の見回りはおろか、買い物もままならない。ではどうするのだろうか。町民の一番の関心事はその仮設住宅の行方だった。