前夜に馬場と猪木の密会があった? BI砲が復活した『プロレス 夢のオールスター戦』の舞台裏
1979年8月26日、日本武道館で『プロレス 夢のオールスター戦』が開催された。それはアントニオ猪木率いる新日本プロレス、ジャイアント馬場率いる全日本プロレス、吉原功率いる国際プロレスの主力勢がひとつのリングに終結した前代未聞のスペシャルイベントであり、大会の最大の目玉は犬猿の仲とされていた馬場と猪木、通称「BI砲」の一夜限りの再結成であった。 【写真】アントニオ猪木は北朝鮮で“国賓級”だった?現地で38万人を熱狂させた「平和の祭典」 だが、実現に至るまで外側からは見えないところで虚々実々の駆け引きが展開されていたという。主催者側の責任者として各団体と交渉にあたった元東京スポーツの櫻井康雄氏(※2017年4月10日に逝去)が舞台裏を明かす。 ※本稿は、『Gスピリッツ選集 第一巻 昭和・新日本篇』(辰巳出版)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
馬場vs猪木の一騎打ちは実現不可能だったのか?
――『プロレス 夢のオールスター戦』の開催に向けて、櫻井さんは馬場さんと猪木さんを引き合わせていますね。 馬場が「猪木に会わせてよ」と言うから、六本木の『梅江大飯店』という中華料理屋にセッティングしてね。その日、新日本は水戸で試合があったから僕が猪木を迎えに行って一緒に深夜に帰ってきたんですけど、馬場はちゃんと待っていてくれましたよ。僕は途中で席を外してね。少し経ってから部屋に戻ったんですけど、殴り合ってるかと思ったら、笑いながら話をしていたから安心しました。ただねえ、マッチメークは互いの駆け引きがあって苦労しましたよ。猪木はできれば馬場とやりたくて。 ――当初、東スポ側は馬場vs猪木の一騎打ちを希望していたそうですが。 当然、そうです。具体的な交渉もしたんだけども、これは馬場が絶対に「イエス」と言わなかった。猪木は話し合いに応じてもいいという柔軟な姿勢を持っていたんだけど。 ――シングルマッチは無理としても、タッグマッチでのBI対決というのも難しかったんですか? 難しいねえ。馬場が猪木を信用していなかったから。これはね、リングの上で裏切られても後から「話が違う」とは言えないんですよ。力道山vs木村政彦戦以来、プロレスというのはそうなんだよね。だから、それだけ覚悟を持ってリングに上がらなきゃいけないという。 僕は後年に木村政彦氏を取材した時、本人に言ったこともありますしね。「それを言っちゃいけないんじゃないか」と。だから、BI対決はできない。猪木はやってもいいよと言うけど、これは自信があるから。そこで結局、馬場と猪木がタッグを組むということになって。東スポ側として馬場vs猪木、ジャンボ鶴田vs藤波辰巳(現・辰爾)、アブドーラ・ザ・ブッチャーvsタイガー・ジェット・シンといった具体的な希望のカードをいろいろと出したんですけど、馬場に言わせれば、「そんなカードはダメだよ。話にならない」ということでね。 最初に僕が考えたのは、とにかく対抗戦のシングルマッチ。3団体からトップどころが出てシングルマッチでぶつかるというのがファンの観たいカードなわけだし。結局、マッチメークは馬場と猪木の2人に任せるということになったんです。でも、カード発表の日が迫っても、これが全然まとまらない。 僕と馬場と猪木の3人で何度も会ったりしていたんですけど、どうにもならなくて最後に馬場が言ったんですよ。「櫻井さん、任せるよ。あなたが上手く考えてよ」と。ただし、それまでの“事情”を考慮してということでね。それからは僕がお互いの意見を聞きながらカードをまとめていったんですけど、馬場が新日本vs全日本のシングルを徹底的に拒否したこともあって、ああいうカード編成になったわけです。