ついに職務停止…尹錫悦大統領「5回の談話」の恐るべきKY度
国会の停滞は尹大統領の身から出た錆
つまり国会の停滞は、尹大統領の身から出た錆(さび)だったのだ。そうであるならば、石破茂首相ではないが、「少数与党として他党にも丁寧に意見を聴き可能なかぎり幅広い合意形成を図る姿勢」が必要だった。 ところが尹大統領は、「悪いのはすべて野党であり、非常戒厳令を敷けば、国民は野党の悪徳ぶりを理解してくれる」と考えたのである。それは、大いなる誤算というものだった。 韓国国民は、まるで1960年代~1970年代の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領か、1980年代の全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領のような軍事独裁者が、21世紀に亡霊のように飛び出したと、ぶったまげたのである。「尹錫悦大統領はとち狂ったか?」と思い、そんな人間に5200万国民の生殺与奪の権限を与えておくことに、不安を覚えたのである。 それで国会議員が190人、深夜の国会議事堂に駆けつけて、戒厳の解除を決議した。韓国憲法の第77条1項に、大統領の戒厳発令の権限が明記されているが、同5項には、国会が過半数の決議でそれを解除できるとしている。大統領の独裁化を防ぐための項目が作用したのだ。
2度目の談話
すると尹大統領は、4日の午前4時半頃になって、虚ろな顔で2度目の「談話」を発表した。 「国会から戒厳解除の要求があり、戒厳の業務に投入した軍を撤収させた。直ちに国務会議を開いて、国会の要求を受け入れて、戒厳令を解除する」 こうして「大統領のクーデター」は、わずか6時間で幕を閉じたのだった。まったくお粗末極まりない「クーデター未遂」だった。 あえて誤解を恐れずに言えば、国家のリーダーというのは、いったん刀を抜いたら、それを振り続けなければならない。前述の朴正煕大統領は18年、全斗煥大統領は8年振り続けた。彼らがそこまで突っ張ったのは、刀を下ろしたとたんに、自己の政権が崩壊することを熟知していたからだ。
3度目の談話
実際、尹大統領は国会での1回目の弾劾訴追案決議が行われた7日午前、「謝罪談話」に追い込まれた。3回目の談話である。 「今回の決定は、大統領としての私の切迫した思いから出したものだ。しかし、それが国民に不安と不便をもたらした。大変申し訳なく思っており、お詫びする。 この宣言によって生じた法的および政治的責任から逃れるつもりはない。また、再び非常戒厳が宣布されることは絶対にないと、はっきり申し上げる。 私の任期を含め、国をどう安定させるか、その決定は、わが党に委ねる。今後の国の運営については、党と政府が責任を負う。国民にご心配をおかけしたことを、改めてお詫びする」 このように、全面敗北を認めたのだった。この談話によって、同日夜に国会で行われた弾劾訴追案の決議に、大部分の与党議員が退席。賛成が3分の2に届かず、廃案となった。