「売れても売れなくてもいい。とんねるずで歌いたい」――木梨憲武、60歳から「もっと遊ぶ」宣言
サッカー部と野球部の盛り上げ役
木梨が生まれたのは1962年、東京・世田谷区。父が営む自転車店「木梨サイクル」で育った。1階に店舗と家族4人が暮らす4畳半の部屋があり、2階には他の家族が住んでいた。 「2階に武藤さんという3人家族が住んで、もう一つ小さいところにおばあちゃんが一人で住んで、自転車屋さんの一軒家に3世帯がいました。奥にお風呂があって、みんな外に一回出て、お風呂入って。そういうのが生まれ育った環境ですね」 その頃から、狭いとか不便だとか、ネガティブなことを言わない性格だった。 「最高に楽しかったです。『せめーなー』とか1回ぐらい言うんだけど、毎日の生活だから、言ったところでね。中学生の頃、武藤さんが出ていって、2階もうちになったんです。すると4畳半が自分の部屋になって。初めてベッドっていうものに寝た。コーラかビールのケースを8個用意して、ベニヤを置いて布団を敷くとベッドになる。テーブルがほしければ、タイヤの上にガラスを置いて。喜んでやってましたね」
小中学校で夢中になったのがサッカーだ。サッカーをやろうと思って、帝京高校に行った。 「日本中から選抜された120人ぐらいの部員を見た時に、やべーなって。この仲間たちと毎日サッカーするのは最高でしたけど、レベルが違うっていうのは、もう高校1年の時に。『でも、何か“隙間”ないの?』って思いながら、3年の大会が終わるまでは全力で」 遠征があると、昼はサッカーの試合、夜は「演芸大会」が各校対抗で繰り広げられた。盛り上げ役の木梨は演芸大会に駆り出され、『科学忍者隊ガッチャマン』の歌を振り付きで歌ったりした。同じ頃、野球部の盛り上げ役だったのが、同級生の石橋だ。 「サッカー部の部室が1階で、野球部が2階だった。1、2年の時からサッカー部の先輩が石橋を呼んで、『何かやってくれよ』って。ドカンドカン、サッカー部の先輩を喜ばしてたわけ。それを僕が横っちょで見てる。で、石橋は野球部が甲子園の予選に負けた後、一人でテレビに出始めたんです」