ハンセン病患者・回復者らが絵に込めた、命懸けの表現とは。強制隔離下での絵画史100年を伝える展覧会をレポート
会期中の調査で最古の水彩画を発見
最後にとても嬉しいニュースも紹介したい。多くの実作が所在不明になっていると冒頭で書いたが、なんと会期中の調査で「絵の会」会員の村瀬哲朗の水彩画が公開の運びとなったのだ。1946年に制作された同作は、多磨全生園絵画における現存する最古のものだ。 吉國:作品は、当館の所蔵資料のなかにありました。今回の展覧会では、村瀬も参加していた「絵の会」の1946年の集合写真を紹介していて、企画展のための調査によって、この写真に写っている描き手2名が誰かを特定(瀬羅佐司馬、村瀬哲朗)することが出来ました。今回は館蔵資料であるこの絵と、この写真に写っている村瀬哲朗の絵を同定することが出来ました。 集合写真に映る額装された作品は油絵のようにも見えるが、終戦直後の物資不足や戦前の資料をふまえると、写真に映った「絵の会」メンバーの作品はすべて水彩画ではないかと考えられてきた。今回の村瀬の水彩画の発見は、それを証拠づけたと言えるだろう。 吉國:村瀬は宇津木豊の名前でも作品を発表していて、1953年に療養所内で開催された文化祭では『燃ゆるボイラー』で特選を得ています。また、のちに園内の中学校で美術教師を務めるなど、多磨全生園での芸術活動に大きな役割を果たした人物です。ハンセン病療養所での絵画史を考えるうえで、大きな発見だと思います。 失われたと思われていたものがふたたび姿をあらわしたことがすでに奇跡的だが、展覧会を見た人々から多数の新証言が寄せられるなど、さまざまな波紋が広がりつつあるという。たとえば鈴村洋子の夫に絵画を教えていたのがまさに村瀬哲朗であったり、実作が多く残っている国吉信は園内の看護学校のひとりの看護学生に絵を教えていたり。 そういった意外な関係性が次第に明らかになることで、ハンセン病療養所の絵画史はいっそう豊かなものとして、輪郭を明らかにしていくだろう。
インタビュー・テキスト by 島貫泰介 / 撮影・編集 by 生田綾