ハンセン病患者・回復者らが絵に込めた、命懸けの表現とは。強制隔離下での絵画史100年を伝える展覧会をレポート
「絵の会」の歩みと、「療養所の秩序維持」という側面から見た絵画活動
いっぽうで、かろうじて残された記録の断片を拾い集め、具体的な事物をかたちづくっていくことも言葉が司る重要な役割だ。あらためて、サークル「絵の会」とその前後の歴史、多磨全生園の画家たちについて書いていきたい。 1923年に第壱回絵画会が行われたことはすでに触れたが、園内で絵を描く者たちの発表の場はそれだけではなかった。1919年に数人の入所者で創刊された園内誌『山桜』は言論と文芸作品の発表の場となり(現在も『多磨』に改名して発行は続いている)、その表紙絵は園外のゆかりのある描き手も含めた入所者たちが担当した。 戦時中には「銃後奉公ノ誠ヲ捧グベシ」といった危うい時勢を感じさせる「療養生活五訓」の言葉が表紙に掲載され、戦後の1950年代には色鮮やかな多色刷りが目立つ。また1957年にはメキシコ壁画運動を牽引したディエゴ・リベラの『とうもろこしをひく女』が複写されているが、これは1955年に東京国立博物館で開催され大きな反響を呼んだ『メキシコ美術展』をふまえたものかもしれない。『多磨』の表紙は、戦後の多磨全生園が外の美術界の動向に影響を受けていたことも伝える。 医師の義江義雄の提案から始まった「絵の会」は、1943年という戦時下で結成されたが、同サークルが、「絵ごころある者は集まれ」という素朴な呼びかけから始まった点で特異だろう。というのも、戦前の療養所内のサークル活動は園内の「秩序維持」のための施策の側面が強かったからだ。 吉國:一例に、戦前の「全生歌舞伎」は入所者の慰安を目的とし、園内の秩序を維持するためのものとして捉えています。つまり、入所者たちに自暴自棄にならず、「趣味にでも励みなさい」、「おとなしくしなさい」、という意味合いで、あくまで園が主導したのが戦前の文化状況でした。 しかし、入所者にとっての表現活動は、園に「許された」「与えられた」ものだけではなかったのです。戦後は治療薬プロミンの導入による病気の回復、また基本的人権を尊重する日本国憲法の登場を契機とする、より主体的で自発的な表現の獲得へと向かいます。実際に戦後に発表された合同歌集に見られる表現が入所者の「自己修養」の枠組みを大幅に超えるものとして医師から批判され、それが論争にまでなったこともありました。 ただ、絵画はその文化的な構造から少し離れたところにあった印象を私は持っています。「絵の会」の結成を提案したのは絵を描いていた医師であり、結成直後は戦時中の総動員性の影響なども見られるが、戦後はどちらかというと、園や職員との融和的な結びつきが目立ちます。50年代の旺玄会展への入選にしても、多磨全生園が作品搬入のために車を出していたという事実も見落とせません。 「絵の会」の会員でもあり、今回の展覧会では1970年代以降に描かれたドローイングも実作で紹介されている氷上恵介(ひかみ けいすけ)は、戦時下の活動について「防空壕の掩蓋(えんがい / 上にかぶせる覆いのこと)をつくるために多くの樹木が切り倒されたが、その音を聞きながらの展覧会であったことに感動する」と回顧している。 戦時下の療養所が入所者の活動全般への統制を強めるなかでの「絵の会」のある種の反骨を感じさせる。とはいえ厳しい状況に変わりはなく、会の本格的な活動は戦後に持ち越された。