ハンセン病患者・回復者らが絵に込めた、命懸けの表現とは。強制隔離下での絵画史100年を伝える展覧会をレポート
絵画活動のなかにいた「異分子」・瀬羅佐司馬という天才
戦後の46年11月には、新憲法発布祝賀行事として書画展をさっそく開催。その時期に「天才」として注目されたのが瀬羅佐司馬(せら さじま)だ。彼の作品も記録写真以外はやはり残っておらず、ここでは瀬羅を評した氷上の言葉を紹介する。 「彼は絵のことになると夢中で、左手に持った絵筆を叩きつけるような描き方をした。左手で描き、しかも人差指の第一関節から先を失っていたので、見ているとなんとなくぎこちなかったが、画布を塗りつぶしてゆくスピードは早かった。(略)枕頭台に置かれた包帯と薬瓶の静物を描いたことがある。再製の包帯には量感があり、瓶の中の水薬は淡いピンク色をし、飲めばうまそうに見えた。」 氷上はこうも書いている。 「人付き合いの悪い彼は、会の指導力など微塵もなくー俺はいい絵を描いてみせるーという気迫だけで生きていたので、会の中でも孤独であった。自画像を彼が描いたことがあるが、その顔は悲しみにゆがみ、目だけはらんらんと光り、何かを凝視している恐ろしい絵であった。」 今回展示されている瀬羅の作品は写真パネルに引き伸ばされた一点のみで、それは戦後の書画展で撮影された集合写真から複写したものだ。 「絵の会」の発足人である義江を中心に、全16名が集まった写真。そこで自画像を持ち、下顎をぐいっと突き出した格好で座る瀬羅には、作品と一緒に「俺を見ろ!」と凄んでいるような主張の強さがある。作家らしい……と言い切ってしまうと語弊があるが、強い「個」を感じさせる人だ。 吉國:どんなグループにもあてはまることと思いますが、集団で行なう活動には必ず異分子がいます。「絵の会」の場合は瀬羅がまさにそうでした。療養所といえども、それはまさしく社会の縮図のようでもあって、グループから外れてしまう、あるいは外されてしまう人たちがいる。そのことは展覧会の中で必ず触れたかったことです。
展覧会で紹介される唯一の女性。「女性が自分の表現活動を続けることが困難であった」
一気に1990年代後半へと時間を跳ぶが、この時代にも「異分子」と呼べるかもしれない作家がいた。 鈴村洋子が多磨全生園に転園してきたのは1967年。地蔵をモチーフにした絵を描き始めたのは1997年からで、笑い顔や穏やかな顔をした地蔵などの絵に言葉を添えた絵手紙のスタイルで制作を続けていた。2016年には、群馬県の画廊で個展も行なっている。 吉國:鈴村の絵は、一見すごくにこやかな絵だけれど、その背後には過酷な経験があります。療養所に隔離された自分自身や、義理の兄が栗生楽泉園の特別病室(重監房)が亡くなった経験を詠(うた)った詩を残していて、溜め込んだ感情への祈りを、絵や言葉に託していたのかもしれません。本人を知る職員の話では「自分は絵しか描けないから」と語っていたそうです。 2014年頃から制作の始まった「現代絵巻」のシリーズは、今回の展示でもっとも大きなスペースを使って展示されている。 自分の健康状態や療養所の様子、16年の熊本地震や過去の戦争体験についてなども書かれたそれは、日記・手記の要素が強く、鈴村の視点で紡がれた現代のクロニクルと呼ぶべきものだ。 吉國:この展覧会で紹介している唯一の女性が鈴村洋子さんです。ほかの療養所における近年の絵画活動には、女性が参加していますが、多磨全生園に関しては2020年に亡くなった彼女だけです。 記録を見る限り、「絵の会」には女性が参加していません。あわせて、とても興味深いのは、「絵の会」を指導した旺玄会の近藤せい子さんは、牧野虎雄の最初の女性の直弟子で、当時は他の男性会員に妬まれ、いじめられたそうです。旺玄会といえども当時は男性会員が多く、女性の参加が少なかったんですよね。この点は、多磨全生園の絵画活動と呼応しています。 これは推察でもあるのですが、ハンセン病療養所では、夫婦関係のなかで家の仕事、つまり、「家事」の大部分は女性が担い、妻は忙しくて絵を描く時間はなかったのだろうと思います。また制作活動への理解を夫から得なければならないということ、また、自分のための画材を取り寄せることも簡単ではないという条件の厳しさがあったのではないか。そういう制限された環境のなかで女性たちは絵を描くために男性以上に戦ってきたのではないだろうか。やろうと思えばいつでもできる、ではないんです。