ハンセン病患者・回復者らが絵に込めた、命懸けの表現とは。強制隔離下での絵画史100年を伝える展覧会をレポート
「絵にかけた命懸けの表現を、ぜひ多くの人に見ていただきたい」
これまで触れてきた表現、作家たち以外にも、本展には美術史や社会に対するさまざまな示唆がある。 先述した氷上恵介と宇津木豊ら成人の入所者たちが、園内の学校で美術教育を担っていたこと。そして1960年代後半から70年代にかけての生徒たちの作品に、社会見学や修学旅行で訪れた園外の名所などの題材が増えたことは、時代と入所者たちの心情の変化を感じさせる。 また1960年1月には、東京国立近代美術館所蔵の絵画数十点が貸し出され、園内の礼拝堂で1日だけの「移動画展」が開催されていたという事実も日本美術史において重要だ。当時の国立近代美術館次長であった今泉篤男と、岩波書店の雑誌課長だった玉井乾介の尽力で実現されたというが、この際の貸し出し記録は国立近代美術館にも一切残っておらず、今後の研究でわずかでも詳細が明らかになることを期待したい。 また、国吉信(くによし しん)や望月章(もちづき あきら)など、比較的実作が多く残っている作家の歩みも重要だが、ここでは丁寧に触れる余裕がない。 表現や社会をめぐるいくつもの宿題を手渡されたまま、なかなか思考を深めることができずにいる自分が歯痒いが、担当の吉國元が指摘した故郷喪失に由来する表現について記したい。 吉國:多磨全生園絵画には、故郷から離れた人たちの表現が多く見られます。氷上恵介は兵庫、国吉信は沖縄、鈴村洋子は北海道、望月章は静岡。みんな遠い土地から強制的に連れてこられ、故郷に帰れなかった。世界的に見れば、移民や亡命、さらに過去の奴隷貿易に由来するなどに故郷喪失の表現が文学や現代美術などであるけれど、戻れない場所について紡がれる表現というのは日本ではそう多くないんじゃないかなと思います。故郷から離れたところで絵を描くということがどういうことなのか……。 多磨全生園絵画は、一般的な大学における美術教育、画壇、マーケットとは、ほぼ無縁でした。美術大学を卒業した自分にとって、それらの、美術を語る上での条件があまりに自明なものになり過ぎていたことに気付かされました。本展で紹介しているのは、先の条件がなかった絵画活動ですが、純粋で、妥協がなく、「絵に対してこんなにもまっすぐな人たちがいたんだ」ということを多くの人に知ってほしいです。 以前、絵を描いてきた回復者にご挨拶をさせていただいたときに、「私は絵を描いてきたからここまで生きてこられた」とその方が言っていて、本当にそうなんだろうと思います。絵に込めた命懸けの表現を、ぜひ多くの人に見ていただきたいと思っています。 「内」と「外」の二分法を強化することで表現動向を手際よく分類し、その多様性を表面的には歓迎しつつも、しかし同時に「規範」となるアートの定義を強化する(ひいては社会階層を固定化する)のが、今日のコンテンポラリーアートのキュレーションなり批評行為の暗黙の作法として有力だが、それは私をいつも落ち着かない気持ちにさせる。 美術教育を受けていない表現だからといって、それはアウトサイダー・アート(※)と言えるのか? そもそもアウトサイド(外)とはどこにあるのか? 私たちが安住しているここは内側なのか? 私たちが見えていなかったものが突如見えてきたとき、それは即座に外側に配置されてしまうのか? ※アウトサイダー・アート……正規の美術教育を受けていない作家によるアート作品を指す。イギリスの美術評論家ロジャー・カーディナルが1970年代に提唱した。 多磨全生園の絵画をめぐる記録を紐解いていくと、入所者たちが同時代の美術誌や情報を積極的に摂取していたことが知れるし、療養所外の展覧会に足を運んでいたこともわかる。先述した旺玄会のメンバーであった画家・近藤せい子と近藤良悦は「絵の会」の指導を行なってもいた。私たちは療養所のなかの表現を知らなかったかもしれないが、かれらはよく熟知していた。 隔離などの歴史的事実から、療養所の「内」と「外」の二分化が明確になってしまいやすいのがハンセン病をめぐる言説の厄介さでもあるが、多磨全生園の絵画活動に見られるのは、その境界を横断するようなダイナミズムだ。先述したように、1955年の旺玄会展への入選、1960年の東京国立近代美術館所蔵作品の療養所での展示もあった。ハンセン病療養所の文化は、つねに内からの力を原動力とし、絶えず外からの影響を受けたながら生成してきたのだ。 吉國:山本哨民は1923年の第壱回絵画会について、言葉や文章で表現していない何らかの欲求をしている、ということを書いています。展覧会ではそこまで深く触れてないんですが、じつはそこに「愛」という言葉があるんです。 「愛」っていうのはすごく抽象的な言葉だし、しかも100年前の愛となるとその意味することを解釈するのは難しいのですが、私の感覚からすると……他者に対する何らかの呼びかけ、希求だったと思うんですね。それが芸術表現の根幹にあるものだったと思います。そこでの他者っていうのは、入所者同士かもしれないし、あるいは職員か園の外の人かもしれないけれど、表現することは常に向こう側にいる誰かに向けて何かを問いかける、投げかけている。 そのことを山本哨民はいまに伝えているように思えます。