なぜ“大阪都構想”は否決されたのか 都市制度改革の機運は生きている
49%対51%。僅差とは言え、今回も反対票が上回った――。 11月1日に行われた、いわゆる「大阪都構想」をめぐる住民投票のことだ。コロナ禍対策で全国随一の評判を持つ吉村洋文大阪府知事と松井一郎大阪市長の“維新コンビ”で臨んだものの市民の判断は5年前と変わらなかった。なぜだろうか? また都市制度改革の芽はこれで途絶えてしまったのか? (行政学者、佐々木信夫・中央大名誉教授)
改革の進み過ぎが原因?
投票日までの2週間ほどの間に度々現地大阪へ足を運び取材した筆者の目には、大阪市民が最後まで迷っている感じがした。投票所に行ってから投票態度を決めた人も相当いたのではないだろうか。 というのも、この5年間、府市一体での改革が進み、問題視されていた「二重行政」の弊害が相当解消された結果、住民の目に余るほどの「問題」が見えにくくなった。しかし、これは現在の知事、市長の属人的な良好関係がなした技。この先、誰が知事、市長になっても変わらないよう意思決定の仕組みを制度的に固定化する、というのが「都構想」推進派が訴えてきた利点だが、コロナ禍の中「先のことまで考えられない」というのがホンネではないか、と考えている。 ある世論調査では9月時点、15ポイント近く「賛成」が上回っていた。しかし、投票日が近づくにつれて賛否が拮抗し始め、“現状維持”を選ぶ人が増え、逆転。改革が進み過ぎて大制度改革が拒まれた。筆者にはそう思える。
過去にも立ち消えになった「都構想」
実は、大阪都構想は88年前にもあった。1932年、東京市が隣接5郡(荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡)82町村を合併し35区(人口約500万人)となり、世界第2位の都市になった同じ年に、同6位の商都大阪が東京市に抜かれたことを挽回しようと打って出た手が当時の大阪都構想だった。 もとより広域権限を大阪府に統合する今回の都構想とは異なり、逆に大阪市域を知事の権限の及ばぬ大阪都として大阪府から独立し、残りの地域は浪速県と呼ぶ、という案だった。「府市が対立し、つまらぬ競争で無駄な費用を使う」「東京市に置き去りをくっては250万市民が泣く」とばかりに地元は熱くなったが、時の政府は冷ややかだった。1943年7月1日に東京市と東京府が合体し東京都が創設された。一方、大阪都構想は大戦末期に立ち消えになった。