「小牧・長久手合戦」はなぜ起こったのか…織田信長亡き後、「信長の息子」と秀吉が戦った大戦の真相
織田信長が本能寺の変で倒れた後も、織田家による天下は続いていた。当時その頂点にいたのが、信長次男の織田信雄である。しかし信長横死の2年後、織田家の重臣である羽柴秀吉と、その主君・織田信雄と同盟者・徳川家康による、天下分け目の大戦「小牧・長久手合戦」が勃発する。 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…! なぜ戦は起こったのか。歴史学者・平山優氏の最新刊『小牧・長久手の戦い 秀吉と家康、天下分け目の真相』(角川新書)をもとに紹介する。
独断専行がきっかけに
信雄と秀吉の対立は、間違いなく賤ヶ岳合戦直後から始まっており、その原因は、戦後処理を秀吉が独断専行で実施したことにあると考えられる。柴田らの遺跡を接収し、それらを織田家臣に配分(知行宛行、加増)や安堵などをする行為は、主従制の根幹であるので、当然、当主信雄が執行すべきものであった。 ところが、これを秀吉が勝手に行ってしまったわけである。当然、両者の関係は、これを契機に冷え込んでいった。前述の通り、面白くない信雄は、信長の一周忌を主催せず、秀吉が執行した仏事に参加もしなかった。 また、信雄よりも秀吉の方が頼るべき人物とみなされるようになる事態が起こる。それは、朝廷の動きであった。賤ヶ岳合戦後、戦勝を祝う勅使が派遣されたが、その相手は、信雄ではなく秀吉であった。さらに、七月には近江石山寺の安堵を命じる綸旨が、信雄ではなく秀吉に発給された。これらは、いずれも、朝廷が頼りになるべき相手は、信雄ではなく秀吉だと認識していたことを端的に示している。
「織田体制」からの離脱
このような背景もあって、秀吉は、「織田体制」からの離脱を図っていく。それを象徴する出来事が起きた。天正十一年六月もしくは七月、信雄は、安土城を退去し、領国である尾張・伊勢・伊賀三ヶ国の統治に専念することとなった。そして、三法師(織田信長の嫡孫)を安土から近江坂本城に移し、秀吉自らの庇護下に置いたのである。織田家家督信雄と、将来の家督継承者であり、天下人織田家を継ぐことが予定されていた三法師の二人が、天下の政庁安土城からいなくなったことになる。 そして、秀吉は信雄に、二度と天下に足を踏み入れないように告げ、欲しいものがあれば、書状で言ってくれば与えるであろうと述べたと伝えられる。信雄は、天正十一年七月二十一日の段階で「清須様」と呼ばれていた。「清須様」との尊称は、信雄が安土城を出て、尾張清須城を本拠とする三ヶ国の大名になったことを象徴していた。 秀吉は、信雄が安土城から退去した直後の、天正十一年八月より、著名な糸印を用いた朱印状の発給を開始し、織田家に代わる「天下人」として振る舞い始めた。 いっぽうの信雄は、同年十月より亡父信長が使用していた朱印「天下布武」にそっくりな、馬蹄形の朱印「威加海内」による朱印状発給を開始した。これは、信雄こそが、信長の跡を継ぐ「天下人」であることを主張しようとしたものであろう。両者の対立は、頂点に達しつつあった。