「小牧・長久手合戦」はなぜ起こったのか…織田信長亡き後、「信長の息子」と秀吉が戦った大戦の真相
秀吉による権力確立の構想
小牧・長久手合戦の契機について、秀吉が信雄を挑発したことにあるという学説は、今も根強い。だが、信雄の求心力が落ち、秀吉に朝廷、寺社、織田家臣らの輿望が集まり、求心力が日に日に増していたことは、これまで紹介してきた通りである。そして、そこには秀吉が信雄を挑発するような行為は認められず、むしろ信雄の威信低下による、主従逆転の方向に、時代が流れているように感じられる。 そして秀吉は、織田家中にも影響力を伸ばしていた。それは、信雄の近臣たちを取り込み、信雄と秀吉の主従関係を逆転させ、「織田体制」をなし崩しとし、秀吉権力を確立しようとする構想である。 信雄の近臣として重要な人物は、岡田重孝、津川雄光、浅井新八郎、滝川雄利、飯田半兵衛尉、佐久間正勝がおり、一門では織田長益がいた。このうち、天正十一年十月から同十二年一月にかけて、津川、岡田、滝川、佐久間、長益は、それぞれ大坂を訪問、滞在していたことが指摘されている。また、岡田、津川、浅井、滝川の四人は、秀吉のもとへ人質を提出していることが判明している。 これは、彼らが秀吉に従属していることを示し、信雄の家老津川らと滝川は、信雄の重臣であるとともに、秀吉にも従属するという両属の関係にあり、それは織田家中における親秀吉派の存在に他ならない。しかも、滝川雄利は、秀吉より「羽柴」名字を授与されてもいるのだ。秀吉による信雄重臣の取り込みは驚くばかりである。信雄は、気づいたら自分の重臣層が秀吉との関係構築を進めており、自らの意思を掣肘する可能性が高まっていたと感じていた可能性が高い。
「主従逆転」の一大好機
そして、秀吉が主従関係を逆転させ、なし崩しに「織田体制」を解体させ、自身が信雄の上位に立ち、秀吉権力の樹立を内外に示す好機が訪れる。それは、天正十二年二月に計画された、秀吉による和泉・紀伊(根来寺、雑賀衆)攻めである。秀吉は、諸将に大坂への参集を命じ、信雄にも参陣を求めた。 こうした計画こそ、主従逆転を象徴していた。ほんらい、誰を敵と認定し、そこに攻め込む計画立案と動員要請の決定は、「織田体制」のもとでは、織田家当主信雄が行うべきものである。にもかかわらず、この出兵計画は、秀吉が立案し、彼が動員をかけ、しかも主家である織田家にも参陣を求めたわけである。 信雄は、自身は参陣せず、家臣水野勝成、吉村氏吉に出陣を命じている。信雄が、秀吉の要請を受諾したのは、重臣らが親秀吉派であり、秀吉の意向を受けるべく信雄を説得したか、行動を掣肘したのだろう。後に、津川ら三家老は「羽筑と申談候」(秀吉と申し合わせていた)と指弾されたのは、このような事態だったのだろう。もし、織田軍が秀吉のもとに参陣したならば、織田家は秀吉に従属したとみなされ、主従関係は名実ともに逆転してしまい、「織田体制」は戦闘を経ることなく解体し、秀吉権力に吸収されてしまう可能性が高かったのである。 実は、先学がすでに指摘していることであるが、秀吉は、天正十二年春、信雄の屈服を目指す動きと並行して、将軍足利義昭の帰洛の実現に向けて調整を図っていた。秀吉は、主家織田信雄と、将軍足利義昭を従属させることで、彼らを包摂した上位権力たる秀吉権力の成立を誇示しようとしたと考えられる。 天正十二年二月、秀吉の出兵要請を受けた信雄は、主従関係逆転のための一手を秀吉に打たれ、窮していた。彼は、あくまで秀吉の主家であり、「織田体制」の頂点だという自意識を捨ててはいなかった。そして、信雄は歴史を動かす一手を打つ決断を下すのである。 参考文献 『一五八四年一月二十日付、長崎発信、ルイス・フロイス書簡』 朝尾直弘『体系日本の歴史8 天下一統』(小学館、1988年) 尾下成敏「小牧・長久手の合戦前の羽柴・織田関係―秀吉の政権構想復元のための一作業」(『織豊期研究』8号、2006年) 跡部信「秀吉の人質策―家康臣従過程を再検討する―」(藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造戦場論上』岩田書院、2006年)
平山 優(歴史学者)