「できる子」なせいで「無気力・不安」になってしまう…「現代の小学生」が抱える「深刻な問題」
「頑張れ」とは言えないが…
教育現場で小学生と日々向き合っているある兵庫県神戸市の小学校教諭は言う。 「無気力という状態に陥っている子に『頑張れ』とは言えません。余計に状態を悪くします。でも、本当に頑張っている人、大人でも子どもでもいい。そういう人が身近にいると、次第に明るい表情を見せてくれるようになります」 こう語った小学校教諭は、比較的、最近の話として、無気力による不登校だった児童が、スポーツ好きの転校生がやってきたことをきっかけに笑顔を取り戻した話を聞かせてくれた。 「たまにしか学校に来なかった子が、転校生の子から、『サッカーをしよう』と言われて、それから行動を共にするようになりました。正直、技術的にはまだまだです。でも、頑張れることを見つけたのでしょう。今では元気に学校にも通ってくれています」 無気力、不安な時、声をかけてくれる人がいる。そして頑張れるもの、打ち込めるものを見つけた。元気に前を向いていく――、これは子どもも大人も同じかもしれない。 また無気力、不安は、ともすれば内に籠り塞ぎこむという印象を持つが、かならずしもそればかりではないという。 先に紹介した小学校教諭は、「できる子、できる人だからこその無気力・不安」という実例についてこう語った。 「何でもできる。頭の回転が早い。人の気持ちもわかる。大人でも子どもでも経済的に裕福とか。そういう環境だと、周りが幼くみえてしまうのか。時に自分が話していることを理解してくれないこともあったり。それが積み重なるとやはり疲弊するものです」 小学校教諭によると、先述した不登校児がまさにそのタイプで、学力、コミュニケーション力、家庭環境と、そのすべてが恵まれていたがゆえに、小学校と周囲の子どもたちがとても幼くみえてしまい、何事にもやる気を失ったのだろう、ということだった。
『フロウ・ブルーで待ってる』
こうした話は、過去、現代を問わず、よく耳にする。そうした実例が数多くあるからか、小説やテレビドラマ、そして漫画の世界でも多々、題材としてありそうだ。 事実、最近の例では、『フロウ・ブルーで待ってる』(江田糸図著・講談社)がある。本作の主人公・幾間余波(いくま なごり)は小学校4年生。勉強も、ルックスも、家庭環境も申し分ない。ピアノも弾く。そんな「勝ち組」小学生の彼もまたデキ過ぎるがゆえの悩みを持っている。そしてある日、転校生との出会いがそれまでのつまらなかった日常を変えていく――。 今、深刻化している無気力・不安の問題を炙り出したかのようなこの作品では、「頑張ることの美しさ」が伝わってくる。誰しも頑張れる、夢中になれるものがあることは幸せだ。だが、現実は、案外、それがある人は少ないのかもしれない。著者で漫画家の江田糸図氏に無気力、不安が蔓延る今の社会はどう映るのか、聞いてみた。 「なにかひとつ。なにかに頑張るとか、これがいいとか、そういうものがあること。それは短い期間でもいいし、思い起こせば、あれだけしかやってこなかったなととかでもいいんです。でも、それはその時ちゃんと夢中になっていた。なんかすごい短い間でも、すごい長い間でも、とにかく夢中になってちゃんとここで頑張ってたなって。ふと思い返した時に、作品を読んで下さった人たちがそう思えるような作品であったらと思っています」 作品中では子どもたちが野球を通して成長していく過程がビビッドに描かれている。だが、本作のテーマは野球ではないという。どういうことか。 「今回は野球という題材を借りました。ですが、野球でなくてもいいと思うんです。仕事でも、学校でも、漫画でも何でもいいのですが……、誰もが楽しかった、しんどかったけど楽しかったり、そういう夢中になるものを描きたいというのが今作のテーマです。夢中になる人は美しいという気持ちを込めて描いています」 今、高度なIT化により、情報の収集が容易となった。誰もが数多くの情報に触れられる時代だ。それゆえ物事のマイナス面ばかりが目につき、夢中になれるものがない、興味を持ってもすぐに飽きてしまうという声も耳にする。こうした現状を江田氏はどう見ているのか。 「たとえば好きなアイドルを追っかけたり。それも夢中になっているということです。ただ、昔より、いろんな面白いものが後から出てくるのが今の時代です。だから一個のものを好きで居続けることが意外と難しい。でも、好きであり続ける、一個のものをひたすら追っかけられている人の数は変わっていない。でも、そこで好きになるものが変わる人が悪いかといえばそうは思わないのです。私もいろいろ好きになりますし。だからこそ楽しいと思うのです」 頑張ること、夢中になることというこれらのワードを見て、こう連想する人もいるのではなかろうか。「無茶をする」「我慢する」――。とくに昭和世代の人に多いだろう。 もちろん何事も成就するためには、ときに無茶や我慢は必要だ。だが、それだけでは無理が生じる。結果、続かない。 昭和から平成、そして令和と時代が進み、いつしか頑張ることや夢中になることに、無茶をする、我慢をするは同義ではないことを社会全体に浸透してきた。 もっとも無茶や我慢を強いられてきたのには理由がある。結果がすべてという価値観が長らく蔓延っていたことによる。 それこそ『フロウ・ブルーで待ってる』の余波(なごり)ではないが、野球をするなら勝たなければならない。勝ちがすべてという勝利至上主義が、つい最近まで当たり前だった。 しかし、これら勝利至上主義、結果がすべてという価値観は、今、鳴りを潜めつつある。そして出てきたのが、「勝利に至った過程はどうか」「結果は敗北だったが試合に出て成長できたこと多々」といった過程(プロセス)を重視する考え方だ。 時代が進み、こうした新たな価値観の台頭により、たとえ上手ではなくとも、皆が皆、何かに頑張り、夢中になれる時代がやってきた。そうした「夢中になれるもの」を探すことに夢中――というのも、またありなのかもしれない。
秋山 謙一郎(フリージャーナリスト)