桑田・清原のPLと名勝負を繰り広げた池田高校、新たな旋風を起こせるか
旗はもうある、でもええほうの旗がほしい
畠山や水野といった超高校級が投げるタマをふだんから打つのだから、なみの投手なら苦もなく打ち返す。畠山がいうには、「投げるのはブルペンより、つねに実戦形式。多ければ、1日300球くらいですから、どうしても手を抜きたくなるじゃないですか。だけど、ブンがネット裏でスピードガンの数字をチェックしているから、僕や水野が、ちょっと手を抜いて110キロとか115キロのストレートを投げたらすぐさま"ちょっと来い!"(笑)」 ノックの腕も伝説的だ。畠山の時代は60歳目前だったから、さすがに息は上がっていたが、「びっくりしたのはね、外野に犬がいたらそれを狙ってライナーを当てましたからね。かわいそうに……(笑)」。酒もよく飲んだ。74年のセンバツ、決勝で対戦した報徳学園・福島敦夫氏はいう。「いまなら写真週刊誌ものだけど、決勝の前日、蔦さんと飲んだよ。そのころは僕のほうが若かったから、酒では勝ったね(笑)」。 そういう監督に率いられたチームも、豪奢だった。82年の夏は、準々決勝で早実から14得点、決勝では広島商から12得点。山びこは、鳴り止まない。だが水野によると、それも結果オーライだったというのがおもしろい。 「(蔦監督は)なにか策を仕掛けては、失敗するんです。ノーアウト一塁でバントをすれば失敗、そのランナーもけん制でアウトになって、なにもできないから打たせたらそこから点が入ったり。じっとしとけよ、と思いましたね(笑)」。 その82年夏、1回勝ったら満足だったという。早実戦の前には、みんなお土産を買い、荷物を整理して、帰る準備をしていた。ただ2年の水野らは、負けて帰るとすぐ新チームの練習だから、できるだけ甲子園に長くいたい。 「それが早実にも勝っちゃって(笑)。荒木さんが5回連続出場の最後だったから、オレらは悪者みたいでしたね。それで優勝するとチームが大騒ぎされて、次のセンバツ、僕はすごい気合いを入れていました。畠山さんが抜けてピッチャーがどうこう、といわれたくなかったのでね。で決勝の前日のメシのとき、ブンが"(センバツの準優勝)旗はもうあるから、どっちでもいいわ。でも、ええほうの旗がほしいの"」