「震災」や「被災地」から離れた次の10年をーー津波に消えた居酒屋、復活に賭けた名物店主の心意気 #これから私は
「被災地」や「復興」からの脱却を目指して
それから3年。「公友館・俺っ家」は現在、ランチと夜の居酒屋でフル稼働中だ。コロナ禍とあって夜は早めに店じまいしているが、ランチはまだ続く各種の工事関係者で連日、賑わいを見せている。 この3月で震災から10年が経ち、震災は改めて多くのメディアで語られた。 「なんていうか、重いよな。店にはテレビがあって、営業中にもつけてるんだけれど、津波の映像が流れると『ちょっとチャンネル変えてください』というお客さんもいた。特に映像にはあの日の時間軸に戻されちゃうんだよ。振り返るのは時には大切だけれど、やっぱりつらい」 今月11日の午後2時46分には、店舗からほど近い追悼施設に熊谷さんの黙祷を捧げる姿があった。 「浮かぶのはいつも、会いたくても会えない友人の顔だ。あいつらに向かって『なんとかやってるぞ』と報告してきたよ。大切なのはこれからの10年だしな」 月末には政府が掲げた10年間の「復興・創生期間」が終了する。
節目を迎えた一方で、震災から数年が経ってからは、「被災地」「復興」という言葉にもどこか違和感を抱えてきた部分があったと話す熊谷さん。 「世界中の人が心配してくれて力になってくれようとしているのは理解しているけれど」と前置きした上で「それでも、どこかに同情やなぐさめの響きも感じたことはあった。堤防もかさ上げ地も工事は終わって、今はさらに整備が進んでいる。俺たちはもう先に進もうとしているのに、被災とか復興って言葉がいつまでもそれを阻んでいる気もしてな。考えすぎなのかもしれないけど」と複雑な心情を吐露する。 本当の意味での復興は外部からの支援ではなく、自分たちで立ち上がらないと成し遂げることができない。熊谷さんはそのメッセージを「俺っ家」の盛況という形で発信し続けた。 「みんなが住みよい街、定住できる街にするためにはまだまだ時間がかかるし、それは簡単じゃない。10年20年、ひょっとして50年かかるかもしれない。『震災』や『被災地』から離れた次の10年を考えてここで生きていきたい」 熊谷さんが語るように、現在、陸前高田という地名を聞けば、多くの人はどうしても「ああ、津波でーー」「あの一本松のーー」という震災にリンクした二の句を継ぐのが現状だ。自分たちの街が震災の枕詞であっていいはずはない。それは市民の、東北全体の願いだろう。被災地からの脱却。それこそがこれからの10年の道標だ。