「震災」や「被災地」から離れた次の10年をーー津波に消えた居酒屋、復活に賭けた名物店主の心意気 #これから私は
全国だけではなく世界中から駆けつけてくれたボランティアが、沿岸に出る前に「現地の状況を教えてください」と立ち寄ったり、逆に現地からの帰りに「工事がこれくらい進んでましたよ」と報告してくれたりするのも常だった。情報発信地としても機能したのは嬉しい誤算だった。 「そういう情報は本当にありがたかったし、仕事のパワーになった。やっぱり盛岡は岩手の玄関なんだよな。地元の人々をはじめ、本当にたくさんの人が来てくれた。アメリカ人、ドイツ人、イギリス人もいたな。苦手な刺し身に挑戦してくれたりして面白かったな。高田だけで店をやっていたらなかった出会いもたくさんあったと思う」 ただ、来店客の多くは震災の話題を口にする。 「酒も入れば、みんな本音でしゃべるべ。特に最初の3年くらいはずっと『あの日の話』は絶えなかったな。決して楽しい話題ではないけれど、『そんな話、聞きたくないよ』と言える話題でもない。でも、それらの聞き役になることはある程度、予想して盛岡に店を構えたわけだから。覚悟していたよ」 結果、たくさんの常連客も生まれ、中には「ひげマスさん、陸前高田に戻らずに盛岡で店を続けてくださいよ」という声もあったが、迷いはなかった。 「最初から最速で高田に戻るつもりだったし、『俺っ家が再開しないと復興じゃないよ』と言って待ってくれている人もいた。そもそも、俺の最初の目標は故郷で居酒屋をすることだから、そこはブレなかった。俺っ家があることでまた戻ってくる人もいるかもしれないし、まずやっぺ、だ」 盛岡で過ごした日々は6年。陸前高田の新市街地のかさ上げ工事が本格化した2017年6月に、「公友館・俺っ家」として凱旋を果たす。
「もちろん、嬉しかったよ。震災前から来てくれた常連や友人の馴染みの顔がカウンターに並んでいると、やっと帰って来られたという気持ちはあった。でも、ゴールというより、ここからだというスタートっていう心境だったかもな」