「震災」や「被災地」から離れた次の10年をーー津波に消えた居酒屋、復活に賭けた名物店主の心意気 #これから私は
まずやっぺ。東北特有の言い回しだが、熊谷さんの場合、「隗より始めよ」「Leap before you look」と解釈してもいいフレーズだ。 高校生の頃、自宅に友人が集まって麻雀したり映画を観たりするのが楽しかった。大人になってもそういう溜まり場のような雰囲気を作りたい。そんな願いを込めた「酔い処 俺っ家」は、「こういう店を待っていた」と好評を博す。地元客で連日にぎわい、店舗拡大のために2度も移転するほどだった。 しかし、2011年3月11日、東日本大震災が起きた。
震災から3カ月で盛岡に「俺っ家」開店、6年かけて陸前高田へ
その日、熊谷さんは就職する長男・雄大さんの引っ越しの手伝いで宇都宮にいた。激しい揺れを感じた震度6強の宇都宮ですら震源から離れていることを知り、愕然とした。 「テレビをつけてもネットで検索しても悪い情報しか出てこない。とにかく帰らないといけない」 神奈川に住む友人が窮状を聞いて車で駆けつけてくれた。一般道を北上し、陸前高田に着いたのは4日後だった。 「道中、いろいろな情報が入ってきたけれど、自分の目で見るまでは信じたくない部分もあった。でも、実際に目の当たりにしても、まだ信じられなかった。悪い夢でも見てるようだった」
陸前高田市は東日本大震災でもっとも津波の被害を受けた自治体のひとつだ。高さ15メートル前後の巨大津波に襲われ水没した市街中心地は瓦礫の山となり、市内の死者・行方不明者は1700人を超えた。 「俺っ家」の店舗も、跡形もなく流失していた。 熊谷さんは家族こそ無事だったが、多くの知人友人を失った。震災から1ヶ月は隣接する一関市の友人宅を拠点に、陸前高田に物資を届ける日々を送る。自身のブログでもその様子や街の状況を報告しながら、4月17日には「力強く踏み出す!力強く引っ張る!」と宣言。そして持ち前の「まずやっぺ」精神で盛岡市内に「陸前高田・俺っ家」を開店する。震災からわずか3カ月だった。 「高田には何もなくなってしまった。だから、みんなが集まれるような、元気づけられるような場所を作りたかった。本物の三陸を知ってもらういい機会になればいいという気持ちもあったし、当時はまだ52歳。おかげさまで身体も動いたし。あとは、そういう店があれば、(行方不明になった)誰かがひょっこり現れるような気もしてなあ」 「ひげマス」の愛称は県都でもすぐに親しまれ、「俺っ家」は盛岡でも人気店に。震災翌年には広田湾で牡蠣やホヤ、ワカメ、帆立の養殖が再開。それらも店の名物に。陸前高田の豊富な海の幸を世に広めるのにも一役買った。