彬子さま 弔問に訪れた母・信子さまを“玄関払い”…溝を深めた寛仁さま薨去後の「FAX無視事件」
夕暮れの赤坂御用地にある三笠宮邸。静けさが漂う築54年の洋館に、天皇陛下と雅子さまを筆頭に、続々と皇室の方々が集まられていく。11月25日、三笠宮妃百合子さまの「霊代安置の儀」が執り行われていた。 【写真あり】“玄関払い”されたという信子さま 「天皇皇后両陛下、上皇ご夫妻については“原則的に葬儀には参列しない”という慣例があるため、儀式に先立って三笠宮邸を訪問され、この日が百合子さまとの最後のお別れとなりました。 今月15日に101歳で薨去された百合子さまに対しては、両陛下は“長年にわたって温かく見守ってくださった”と深く感謝され、心からの哀悼の意を捧げられたと伺っています。 しかし雅子さまは、三笠宮家が抱える“問題”について、非常に心配なされているご様子だというのです」(皇室担当記者) 百合子さまの本葬にあたる「斂葬の儀」は、皇族方が眠る豊島岡墓地で行われる。喪主は、百合子さまの長男・寬仁さま(2012年に薨去)の長女である彬子さまだ。 そしてこのことは、三笠宮家を巡る“パンドラの箱”が、百合子さまの薨去によって開いた象徴的な出来事でもあった。三笠宮家の事情に詳しい宮内庁関係者は、激化する“確執”について、次のように明かした。 「ご身位や慣例からいえば、寬仁親王妃の信子さまが喪主を務めるはずですが、三笠宮家にはそうならない複雑な事情が長年にわたって存在しています。信子さまは、百合子さまのご容体が悪化し、ご入院先の聖路加国際病院にご親族が集まるなかでも、お見舞いにいらっしゃることはありませんでした。 15日に信子さまは、両陛下や上皇ご夫妻、秋篠宮ご夫妻と愛子さまに続く形で、三笠宮邸へ弔問に訪れています。しかし、玄関で宮務官らに労いをお伝えになっただけで、百合子さまのご遺体には対面しておられません。文字どおり、“玄関払い”されていたのです。信子さまは斂葬の儀にも参列されず、行事の後にお墓参りされることになるのでしょうか……」 ■“信子さま包囲網”が徐々に形成されて…… 彬子さまと妹の瑶子さまは、なぜ信子さまが百合子さまと対面することを許されなかったのか。寬仁さまが薨去されてから3年後、月刊誌に寄せた彬子さまの手記に、複雑に絡み合った対立の発端を窺うことができる。 《寬仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。その要因であったのが、長年に亙(わた)る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた》(『文藝春秋』2015年7月号) 豪放磊落な言動で、“ヒゲの殿下”と国民に親しまれた寬仁さまは、1980年に信子さまと結婚。彬子さま、瑶子さまがお生まれになり、信子さまは家庭料理などのレシピ本を出版されるなど、円満で温かな家庭を築かれているとされていた。 しかし、信子さまが寬仁親王邸(現・三笠宮東邸)を“病気療養”という理由で出られたのは2004年のことだった。前出の皇室担当記者は、 「この“家出”は、寬仁さまとの夫婦仲が極度に悪化したためでした。寬仁さまのアルコール依存症の治療を巡る対立や、殿下による家庭内暴力が原因だったと報じられてきました。ですがお嬢さま方は、寬仁さまを心底敬愛されていましたし、“病気の父を置いて家を出るのは許せない”というお気持ちを抱かれていたと伺っています。 そして寬仁さまが危篤状態になられた際、信子さまはお見舞いのためにたびたび病院に足を運ばれましたが、最後までご夫妻の対面はかないませんでした。信子さまはこの対応から、お嬢さま方のほか、義母にあたる百合子さまら親族への不信感を募らせていったそうです」