江戸時代に行われていた信用調査書の作成方法とは?銀行業の先駆け「三井大坂両替店」の残された史料から読み解く
◆契約を断る判断は平手代にもあった ただし、例外もある。たとえば安政元年(1954)12月の事例では、「右聴き合わせましたところ、堺筋北久宝寺町(さかいすじきたきゅうほうじまち)の泉屋という者へ〔担保物を〕銀二七、八貫目の家質に差し入れておりますので、取り組み(契約)の断り(謝絶)を〔顧客に〕知らせましたこと、12月17日、聞き合わせ池田庄三郎(いけだしょうざぶろう)」とある。 庄三郎は当時、平手代だ。一方、安政7年正月の事例では、「右承りましたまま記す。右のとおりにてあまり身体向(しんだいむき)(家計状態)がよろしくないとのことなので、断り(契約の謝絶)を〔顧客に〕知らせましたこと。申(万延元年)正月5日、〔清水〕泰二郎(泰次郎)」とある。 これらの例によると、すでに顧客の担保物が他者への質に入っていたり、顧客の家計状態がよろしくないと手代が見聞きしたりして、契約を結ぶ見込みがないときには、平手代の判断で契約を断っていたことがわかる。 よって正確にいえば、平手代には契約を承諾する権限はなかったが、見込みがないと判断した際に契約を断る権限はあったことになる。
◆備忘録的用途 もっとも、信用調査書には、役づき手代への報告書という性格のほかに、もうひとつ重要な用途があった。それは、契約の見込みがなくとも、後日、参考にするために記録しておく備忘録的用途だ。 たとえば、文化14年(1817)7月の事例では、「堂嶋弥左衛門町(どうじまやざえもんちょう)の播磨屋弥兵衛(はりまややへえ)が御印(おしるし)(延為替)で銀一二〇貫目を〔借り入れたいと大坂両替店に〕申し来て、すぐに〔大坂両替店の手代が弥兵衛の信用情報を近辺で〕聞き合わせましたところ、まったく相手にできないものにございましたが、今後の心得のため控えおきます」とある。 文政元年(1818)9月の事例では、「右人(顧客の伏見屋嘉兵衛<ふしみやかへえ>)の世間向の気受けは甚だよろしくありませんとのこと。すでに〔嘉兵衛の〕同商売(紙商売)については、売買はもちろん、問屋(紙問屋)一統(全員)なども〔嘉兵衛とは〕取引などは一切していませんとのこと。そのため〔嘉兵衛の〕身上向(しんじょうむき)(家計状態)はよろしくありませんとのこと。もちろん〔嘉兵衛は〕他者へ〔自らの家屋敷を〕家質に差し入れており、当時は目安(訴訟)中でございます。到底、相手にすることもございませんが、後日に至るときの心得のために控えておきますこと」とある。 これらの例のように、大坂両替店にとっては門前払いに値する顧客であっても、手代が必要と判断すれば、後日のためにその顧客の信用情報を調査しておくことがあった。このような情報の蓄積は、のちの判断材料、あるいは後任の手代の参考資料になったはずだ。