江戸時代に行われていた信用調査書の作成方法とは?銀行業の先駆け「三井大坂両替店」の残された史料から読み解く
◆借入希望の顧客が来たら ここで、まずは信用調査に至るまでの具体的な流れを確認する。 借入希望者である顧客は、大坂両替店の店舗を自ら訪問したか、あるいは金融仲立人(なかだちにん)(多くは口入<くにゅう>と呼ばれた)がその代理として訪問した。 金融仲立人とは、いわば顧客と金貸し業者とをマッチングさせ、手数料収入を得ることを生業とした者で、顧客が希望する条件と提供できる担保を記した折紙を様々な金貸し業者に持参し、交渉を試みた。 筆者の見立てによると、金融仲立人が介在した件数は、信用調査書に明記されている分だけでも全体の約半数に及んだ。よって、金融仲立人たちが借入希望者の情報を大坂両替店に持ち寄ってくることは、日常的であったと考えられる。 とくに三井大坂両替店は著名かつ有力な金貸し業者であったから、借入希望の顧客であれ、代理人としての金融仲立人であれ、条件に合うと考えれば、まずは借入を打診する候補として機能したはずだ。 さて、顧客、あるいは金融仲立人が大坂両替店に借入を打診したとする。これに対し契約の可能性があると手代が判断した場合、顧客の信用情報を調査した。 たとえば、19世紀中頃の信用調査書を読むと、顧客ごとに記録された信用情報の末尾には、「右のとおり近辺にて承りましたこと。(安政5年)7月5日、聴き合わせ鳥居豊三郎」、「右のとおり近辺にて承りましたまま記しておくものです。午(安政5年)7月9日、清水泰二郎(泰次郎)」などとある。 信用調査書は、手代らが顧客の近辺でその信用情報を聞き回り、記録したものであることがわかる。
◆平の手代が上司にする報告スタイル このように若手の手代が顧客の信用調査を実施したわけだが、実際の文言を読むと、若手の手代が役づき手代に顧客の信用情報を報告する形態がとられていたことがわかる。 たとえば、万延元年(1860)7月の事例では、「右〔の顧客について〕聴き合わせましたところ、まず相応にございます。いまだ〔顧客の担保物については〕家質に差し入れておらず、しかしながら取り組み(契約)のことはしっかりと御勘考(ごかんこう)ください。右あらまし承りましたまま写しおくものです。9月12日、〔松野〕喜三郎」とある。 これによると、顧客の提供する担保は相応で、いまだ家質にも入っていない(顧客が他者に家屋敷を質に差し入れて金銭を借り入れていない、つまり担保の家屋敷に先取特権が設定されていない)こと、しかし契約を結ぶかどうかについては入念に審査してほしいことを、平手代の松野喜三郎(まつのきさぶろう)が意見する形をとっている。 「御勘考ください」という文言をふまえると、これは明らかに上司である役づき手代に対して報告したものだ。 したがって、信用調査書は、基本的に、平の手代たちが顧客の信用調査を上司の役づき手代に報告するために作成されたものであり、この報告書を役づき手代たちが審査して、契約を結ぶかどうかの判断を下したと考えられる。 あくまで平の手代には審査し、契約の承諾を決定する権限はなく、その権限は基本的には役づき手代たちにあったといってよい。