本質は「人を喜ばせるための笑い」――知られざるお笑い激戦地、沖縄芸人地帯を行く
伝説的お笑い番組を作った男
林助の最後の弟子である玉城満は、初めてワタブーショーを見たときの衝撃をこう語る。 「昔は、沖縄出身ということだけでバカにされたから、自分たちの文化にどんどん蓋をしてきた。でも、林助さんは、沖縄の古典を発掘し、さらに、本土やアメリカのリズムを取り入れた。これもいい、あれもいい、っていう人だったから。チャンプルー文化の走りでしたね」
チャンプルーとは、ゴーヤチャンプルーに代表されるように「混ぜる」という意味だ。チャンプルー文化が生まれた背景を玉城はこう分析した。 「沖縄はユガワリ(世替わり)を何度も経験してるでしょう。琉球の世があって、中国の世があって、大和(本土)の世があって、そしてアメリカの世があって。そして、また大和。拒んでいたらキリがない。生きていくために何でも受け入れるしかなかったんだと思うよ。表立って不満は口にできないから、僕らもそうだけど、そうしたものは歌や芝居の中に風刺として織り込んだ。そうして笑いの文化も発達したんだと思います」 沖縄には今も伝説として語り継がれるお笑い番組がある。本土ではダウンタウンが時代の寵児となり、テレビ界を席巻し始めていた1991年、琉球放送の月曜から木曜までの深夜帯で『お笑いポーポー』という10分間のコント番組が始まった。その番組に出演していたのが、玉城が座長を務めていた笑築過激団である。東京のレビュー劇団「松竹歌劇団」に引っかけて旗揚げした喜劇集団だった。 『お笑いポーポー』で扱われるネタは方言丸出しで、沖縄県民の習性や癖をおもしろおかしく皮肉ったものがメインだった。
当時の教育で、県民は自分たちの文化は恥ずかしいものだと刷り込まれていた。『お笑いポーポー』は、それを逆手に取ったのだ。玉城が話す。 「僕らはウチナーグチ(沖縄の言葉)を使うと『汚い言葉を使うなよ』と言われた世代。そんなこと、ないんだけどね。僕らの番組をきっかけに子どもたちもウチナーグチを使うようになった。コントを見て笑って、解放されたんだろうね。僕はいつも軟骨精神ということを言ってきたの。沖縄には反骨の人もいっぱいいるけど、基地問題にしても、本土とウチナーがじかにぶつかったら痛いでしょう。骨と骨がぶつかっても痛くないように軟骨がある。世の中の軟骨になるのが沖縄の喜劇人の役目だって思うわけ」 当然、ありんくりんも『お笑いポーポー』の洗礼を浴びている。ただし、ひがは沖縄のお笑い界の未来についてこう語る。 「今、沖縄の笑いは現状維持になっていると思う。先人のやってきたことをただ継いでいるだけ。沖縄の人の本音をもっとお笑いに込められるようにならないと。それができればお客さんも喜んでくれるし、沖縄のお笑いももっと強くなると思う」