本質は「人を喜ばせるための笑い」――知られざるお笑い激戦地、沖縄芸人地帯を行く
お笑いの世界でいう「第七世代」とは2010年以降にデビューした20代から30代前半の若い世代のことを指し、霜降り明星やEXITなど次々と人気者が出ている。 沖縄は隠れたお笑い王国だ。沖縄の人口は約150万人。川崎市や福岡市など、大きな都市くらいの規模だ。にもかかわらず、よしもとエンタテイメント沖縄をはじめ県内には有力なお笑い系事務所が三つも存在する。クリスは冗談交じりに嘆く。 「沖縄で売れるのは内地で売れるより難しいかもしれないです。東京も芸人が多いですけど、そのぶんメディアも多い。沖縄は芸人が多いのに、メディアが少ない。競争率、高すぎますよ」 ありんくりんは今の沖縄を代表する芸人だが、ひがが巧みにに三線を奏でるなど同時に昔の沖縄を感じさせる芸人でもある。 2人は当初、東京のNSC(吉本のタレント養成所)に入学するつもりだった。ところが、ひがの強い希望で沖縄に残る道を選択した。 「最初、トリオでやっていて、そのうちの1人が、本土っぽいしゃべりに変えて、沖縄ネタも封印しようと提案してきたんです。でも、それが僕にはできなかった。沖縄のお笑いを継承していきたいという思いがあったので」
沖縄の笑いの歴史を語るとき、欠かすことのできない巨人が2人いる。「沖縄のチャップリン」こと小那覇舞天と、その愛弟子で「てるりん」の愛称で親しまれた照屋林助だ。舞天は1969年、林助は2005年に鬼籍に入っている。 ひがは舞天の歴史を調べ上げ、「ヌチヌグスージさびら沖縄のチャップリンと呼ばれた男~」という舞台脚本を書き、自ら主演を務めた。「ヌチヌグスージサビラ」とは「命のお祝いをしましょう」という意味だ。 終戦後、舞天と林助は、地元の家々を回って、打ちひしがれていた人たちに「せっかく命を拾ったのだから、その祝いをしましょう」と語りかけ、風刺を混ぜた歌や踊りで笑いを届けた。沖縄のお笑いの原風景の一つがここにある。 舞天の薫陶を受けた林助は1957年、コザ(現・沖縄市)の芝居小屋で、歌、踊り、曲芸などを混ぜた「ワタブーショー」の上演を始め、沖縄演芸界に革命を起こした。ワタブーとは沖縄の言葉で太っている人を表す。林助自身、身長180センチ、体重100キロ超の巨漢だったことから、こう命名した。