ロシアのウクライナ侵攻で再び浮かび上がった「西側」の文化的本質(中) 「東の自然学から西の自然科学へ」
アリストテレスからニュートンへ
12世紀のスペインにおいて、西欧の修道士たちが、イスラム勢力が残した文献からアリストテレスの大量の著作を発見して以来、ビザンチン・イスラム文化の知が、少しずつ西欧に染み込んでいく。この過程を詳述したのがリチャード・ルーベンスタインの『中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ』(小沢千重子訳・ちくま学芸文庫・2018年刊)であり、ミステリー小説として成功を収めたのがウンベルト・エーコの『薔薇の名前』(河島英昭訳・東京創元社・1990年刊)である。 もちろん古代中世の自然学と近代科学には大きな隔たりがあるが、僕たちが中学で習ったピタゴラスもユークリッドもアルキメデスも古代ギリシャの人である。この時代には原子論の萌芽も見られ、明らかに科学の種が蒔かれたのだ。 そしてその知の種子は、ビザンチン・イスラム文化の中に育った(特に数学、化学、医学、天文学など)のであり、12世紀以後になって、西欧カトリック世界に移植されたのである。いわば12世紀から15世紀あたりまでに「東側=ギリシャ文化圏」が「西側=ラテン文化圏」を文明化したのだ。あたかも16世紀以後に、西欧が他の世界を「文明化」したように。 古代中世の自然学と近代自然科学の違いについては、小山慶太氏による『科学史年表』(中公新書・2003年刊の「プロローグ・自然科学誕生前史」が簡潔明瞭なすぐれた記述である。16世紀の西欧に、ルネサンス、外洋航路の発見、宗教改革、科学革命(たとえばコペルニクス)という、いわば「知の大爆発」が起こり、17世紀のガリレイ、ケプラー、ニュートンへと至る、実験と観察と解析による近代自然科学の花が開いたのだ。それは「物語的な自然学」から「法則的な自然科学」への転換であり、近代西側文化の本質としての自然科学的世界観が形成される。 つまり西側文化の本質としての近代自然科学への道程は、16世紀までは、むしろ東側が「本流」であり「本家」であったともいえる。われわれは、長期にわたる西欧からの歴史的プロパガンダにより、古代ギリシャから近代西欧への知の発展が、西側の内部において直線的に進んだものと考えがちだが、それはまちがっている。歴史を長い目で見れば、むしろ西欧こそが新参者であった。 そして16世紀以後、自然科学を核にして産業革命へと発展する「西側」に対して、停滞する「東側」の怨念が生じる。資本主義に対峙する社会主義が東側に実現したことにも、こういった歴史的怨念、長期にわたる「都市化の反力」が作用している。 今回のウクライナ侵攻はプーチンの戦争といわれるが、東欧には西側に対する文化的怨念が蓄積しているのだ。イスラム世界にも、中国にも蓄積している。東欧のそれは「本家」としての、イスラム世界のそれは「隣家」としての、中国のそれは「他家」としての怨念である。 日本文化にはこういった怨念が感じられない。もちろん東洋に位置する国として歴史的な軋轢はあったが、結局は、軽々と西欧に追随して、今は当たり前のように「西側」の一員となっている。これまで多くの国を歩いてきた経験から、世界には、日本に対して「うらやましい」(特に途上国)という感情と「こにくらしい」(特に西側の反発する新興国)という感情が交錯しているように思える。 この国(日本)の文化的舵取りはなかなかデリケートなのだが、日本人自身があまり意識していないようだ。