ロシアのウクライナ侵攻で再び浮かび上がった「西側」の文化的本質(中) 「東の自然学から西の自然科学へ」
物力の都から精神の都へ
こうした、同じキリスト教圏における、西側文化(カトリック・ラテン語文化)と東側文化(正教会・ギリシャ語文化)の相違と軋轢はいかに形成されたのか。 キリスト教が広がったのはローマ帝国内部においてである。『ローマと長安―古代世界帝国の都』(講談社現代新書・1990年刊)という本を書いていたとき、僕は、なぜあの合理主義的なローマが、迫害を受けたユダヤ人から始まったキリスト教に染まったのか、なぜ「ローマは一日して成らず」といわれた強大な帝国が西と東に分かれたのか、という二つの疑問が頭を去らなかった。 実はこの問いを考えることが、「西側」と「東側」の文化的相剋に対する答えにもなる。古代ローマの歴史において、カエサル(英語名シーザー、ローマ史上最大の英雄)、アウグストゥス(初代皇帝)に次いで重要なのは、コンスタンティヌス1世であり、都市コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)を建設し、キリスト教を公認し自らも入信した。すなわち東ローマ帝国とビザンチン文化の事実上の創設者である。当時、この地域はヘレニズム(ギリシャ主義)文化圏であった。 たとえばローマのカラカラ浴場に併設された図書館にはギリシャ語とラテン語の部屋があった。たとえばコロッセオ(闘技場)は、下からドリス式、イオニア式、コリント式の、グリーク・カラム(古代ギリシャの列柱様式)で飾られていた。ローマは巨大な公共建築で知られているが、アーチ、ドーム、ヴォールトといった架構技術、あるいはコンクリートやクレーン(人力)といった工事技術などはローマ時代の開発であっても、美術的な様式はギリシャ様式を踏襲していたのだ。ローマにおける学問と芸術は全体的に、ギリシャを継承し、ギリシャ人に負っていた。 そう考えれば、ローマ文明はギリシャ文明のあとに来るのではなく、ローマ文明そのものが、その精神的中核としての「ギリシャの知」の外的発展であったのだという理解も成り立つ。 都市学の泰斗ルイス・マンフォードはローマを「都市建設業者の文明」としている。ローマ人はその版図(はんと)にすさまじい勢いで都市化を進め、あらゆる富と奴隷労働力をローマに集約した。いわば「苛烈な都市化」の文明であり、ローマは「物力の都」であった。 これまでにも書いてきたように「人類の歴史と文化は都市化とその反力として説明できる」というのが僕の基本的な考え方である。苛烈な都市化には強い精神的反力が生じる。その反力は、社会の上からは「贖罪」の意識として、下からは「救済」の意識として顕現する。 つまりローマ帝国の内部がキリスト教化するのは、その上からと下からの「都市化の反力」によるのだ。帝国の文化的中心がコンスタンチノープルに移るのは「物力の都」から「精神の都」への移行であり、ギリシャ回帰でもあり、これも一つの「都市化の反力」であった。