蓋をしていた性虐待の記憶が蘇ったきっかけは、父の酒乱と再度繰り返された性暴力だった
父親による性虐待、母親による過剰なしつけという名の虐待を受けながら育った碧月はるさん。家出をし中卒で働くも、後遺症による精神の不安定さから、なかなか自分の人生を生きることができない――。これは特殊な事例ではなく、安全なはずの「家」が実は危険な場所であり、外からはその被害が見えにくいという現状が日本にはある。 何度も生きるのをやめようと思いながら、彼女はどうやってサバイブしてきたのか?生きていく上で必要な道徳や理性、優しさや強さを教えてくれたのは「本」という存在だったという。このエッセイは、「本」に救われながら生きてきた彼女の回復の過程でもあり、作家の方々への感謝状でもある。 * * * * * * * ◆息子を連れての帰省中、酒乱に陥った父 長男の希望で次男を授かり、喜びに包まれたのもつかの間、私と元夫の関係は悪化の一途をたどった。不定期に暴言を吐く彼の癖は、次男が生まれても変わることはなかった。しかし、私がたまりかねて離婚を切り出すと、泣きながら謝罪する。時には自ら土下座までする彼を、私は都度許してしまった。弱かったのだと思う。結局私は、どこかで思いきれなかったのだ。子どものため、だけではない。一度は愛した人を、生涯を共にしたいと思った人を、私は容易には諦めきれなかった。 この時期の私は、同時にある現象にも悩まされていた。それは、失った記憶の浮上だった。結婚が決まったのを境に、両親から受けた虐待の一部が私の中から欠如したことは、過去のエッセイ(性虐待を受けて家を飛び出した後、転機となった元夫との出会い。「普通のふり」を重ねるうちに書き換えられた記憶と、体に染み付いたトラウマの傷)で綴った通りである。記憶の欠如は、私自身を守るために必要な防衛本能だったのだろう。 欠けていた記憶が自分の中に蘇ったのは、子連れで実家に帰省したことに端を発する。性虐待の記憶が抜け落ちていた私は、出産後、不定期ではあるものの孫の顔を見せるために実家に帰省していた。それが世間でいうところの「ふつう」であったし、帰らない理由をあれこれ詮索されるのが煩わしかった。元夫は仕事が忙しかったため、帰る時はいつも私と子どもたちだけだった。私の行動の軸は、どこまでも「自分」ではなく「世間の目」に置かれていた。それが、誤りだった。 次男の出産を控えた年末年始、子や孫の帰省中にもかかわらず、父は泥酔して家具を破損するほど暴れた。昔の私だったら、そこで恐れをなして固まっていただろう。だが、私の隣には長男がいて、お腹の中には次男がいた。守らねばならない存在がある。その事実が私を強くした。この日、私は生まれてはじめて、父に敢然と立ち向かった。 「なんでそんなになるまで飲むのよ!子どもたちが怖がってるでしょう!いい加減にしてよ!!」 私の怒声を聞いた父は、一瞬何が起きたのかわからない様子だった。押し黙り、まごまごと周囲を見回し、それからようやく怒りを発露した。 「誰に向かって口聞いてんだ!」 父の怒鳴り声は、昔の私にとって恐怖の象徴だった。しかし、この時の私には怒りの感情しかなく、恐れはずっと遠くにあった。なぜ、こんなになるまで飲んでしまうのか。なぜ、大人なのに飲酒量をセーブできないのか。ただただ腹立たしく、私は容赦なく父の弱さを糾弾した。 当時の私は、アディクションに対する知識が今よりも足りていなかった。依存症は、己を律することができない状態にあるからこそ「依存症」なのだ。父が必要としていたのは、叱咤でも懲罰でもなく、適切な治療だった。だが、私も、ほかの家族も、父を治療につなげる手段を見出すことができなかった。