蓋をしていた性虐待の記憶が蘇ったきっかけは、父の酒乱と再度繰り返された性暴力だった
◆言い訳を重ねる両親に突きつけた絶縁宣言 アルコール依存症。受診すれば十中八九その病名がつくであろう父は、しかし頑なに「自分はまともだ」と主張した。少し飲みすぎてしまっただけだ、正月中、孫たちに会えて気が大きくなっていた、ほんの少し羽目を外しただけなのだから大目に見てほしい。翌朝、酔いが冷めた父はそのようなことを延々と繰り返し、母もそれに同調した。 「お父さんは、あんたたちが帰ってくることを本当に楽しみにしていたんだよ。だからちょっとはしゃいでしまっただけで、悪気はなかったんだよ。お正月なんだし、ね?あんたがいつまでも怒っていたら、子どもたちも気を使うし……」 カーテンレールを壊した挙げ句、窓にヒビを入れることのどこが「ちょっとはしゃいでしまっただけ」なんだ。 そう言い返せればよかった。しかし、母が父を庇う様を見て、私はひどく脱力した。率直に、“もう、いい”と思った。この人たちは、これからもこうやって生きていくんだろう。都合の悪いことには目をつむって、耳を塞いで、自らの悪行を省みるのではなく、それを指摘する人を「いつまでも怒っている人」扱いして、そうやって自分たちがこしらえた安全圏の中でひっそりと生きていくのだ。だったらもう、好きにすればいい。 「また“はしゃいで”子どもたちに怪我でもさせられたらかなわないから、新幹線の切符が取れ次第、私たちは帰ります。こんな家、二度と帰ってきません」 それだけを言い残し、私は両親のそばを離れた。元夫は、酒を飲まない。私はある程度嗜むものの、父のような飲み方は絶対にしない。だから長男は、この時はじめて「酒乱」というものを見た。 「夕べのじいじ、どうしちゃったの。あれ、なんだったの?」 長男の質問に、私は答えられなかった。謝ることしかできない自分を、心底無力だと思った。
◆帰宅前夜、「話がしたい」と父が言った 翌日の新幹線にわずかながら空きがあったため、私と息子たちは予定より数日早く帰宅することとなった。私のその判断を母は「冷たい」となじったが、私は聞く耳を持たなかった。父は孫たちに直接的な暴力こそ振るわなかったが、壊れたカーテンレールの破片が絨毯に飛び散り、息子がそこに手をついて怪我をした。ほんのり血がにじむ程度の些細な怪我だったが、私は怒り心頭であった。そもそも、酒に酔って暴れる姿を見せることそのものが立派な暴力である。 そうだ、こういう家だった。こういう親だった。自分が何も悪くなくても、一方的に痛みを負わされる場所だった。そんなところに息子たちを連れてきたのが間違いだったのだ。 実家で過ごす最終日、日中は祖父母の家に逃げ込んだ。祖父母は、実家から車で30分程度の場所に住んでいる。祖母は数年前に他界したが、この時はまだ健在だった。ひ孫の顔を見るたびに喜んでくれる2人の存在が、私にとって救いだった。 しかし、2人はこの時点でかなり高齢だったため、宿泊を願い出ることはできなかった。祖父母宅を後にしたのち、夕飯を外で済ませて寝る段になってから帰宅した。正月中だったため、ホテルなどの外泊先はどこも満室で、空きがあっても高額でとても手が出なかった。しぶしぶ帰宅し、歯磨きと風呂を済ませて、早々と布団に入った。私の緊張感を察した息子たちは、いつもより手がかからない、大人がいうところの“いい子”だった。 すんなりと寝息を立てはじめた長男の顔を見ていると、ふいに物悲しい気持ちに襲われた。「実家に帰るとホッとする」と多くの人が言う。でも、私にはその感覚がわからない。長男が生まれて以降は、義務感だけで帰省していた。床が軋むこの家に足を踏み入れた途端、私の体はどこかしらが拒絶反応を起こしてしまう。この日は、頭痛と目眩だった。 深く長い溜息を吐き出し、水を飲みにいこうと重い腰を上げた。ギイと鳴る扉の音、私がかつて使っていた部屋の床が軋む音。それらを聞くだけで心がざわめく。その理由を忘れたままでいられたら、私は今よりも生きやすかっただろうか。 台所に立った私に、背後から掠れたような声が響いた。 「少し、話がしたいんだ」 私にそう言ったのは、父であった。母はすでに寝室で寝息を立てていた。応じてはならない。脳内で鳴る警笛はその一択だけを告げていたのに、私は「うん」と答えた。なぜなのかは、今でもわからない。