伝統に挑みながら和傘文化を守り続ける「仐日和」
ーそれからどのようにして和傘職人の道を進んでいったのですか? 叔父の会社に入って、最初は傘に傷がないかをチェックするところから始めて、少しずつできることを増やしていきました。叔父の会社は分業制なので各工程に職人さんがいるのですが、みなさんご高齢だったので、ゆくゆく作業できる人がいなくなって困らないように一通り自分で工程を把握しておこうと思いました。 和傘の作り方についてはつきっきりで教えてもらえるわけではなく、一度作業のやり方を見せてもらい、あとは実際に自分でやりながら覚えていく感じだったので、仕事のあとに練習時間を取るのは結構大変でした。 練習用の傘があるわけではないので、きれいにできたものは商品にして、ダメだったものは訳ありで売ったりもしました。私の場合は自分の作った傘が店頭で販売されるまでの期間が短く、半年から1年くらいだったと思います。 それは小さい頃から和傘屋に毎週通って職人さんに遊んでもらったり、いろいろな作業を見せてもらったりしていたので、なんとなく手つきを覚えていたんですよね。その経験が生きているというか、ベースになっていると思います。
ー岐阜県は和傘の生産額日本一ですが、そもそもなぜ岐阜で和傘文化が広がっていったのでしょうか? ひとつは、江戸時代の藩主が武士の内職として和傘作りを奨励したこと、もうひとつは、岐阜の有名な和紙である美濃和紙や竹、油など和傘を作るのに必要な材料が長良川流域に揃っていたことです。 それらが川を下ってここ湊町で水揚げされていたことで発展していきました。ですので、岐阜は和傘以外にも、うちわや提灯といった竹や和紙を使った工芸も有名です。 ー全盛期はどのくらい和傘の職人さんがいたのですか。 もう石を投げれば当たるというような感じでした。和傘はこのあたりの一大地場産業だったので、岐阜市の南側にある加納エリアを中心に、和傘作りの道具を取り扱う専門店がいくつもあったぐらいです。 昭和の頃は月に100万本くらい和傘が作られていました。職人さんの数も多く、このあたりではみんな何かしら和傘に携わっていたので、競い合って作られていたんですね。だから今見ると「どうやって作ったのかな」と思う和傘が博物館に並んでいたりします。 蛇の目傘と言われる傘は骨の数が44本から48本なんですが、骨の数を100本にしたものもあり、精巧な作りのものが多く作られていました。それから、今の和傘は閉じたら外側は1色のものが多いのですが、当時は外側に絵が描かれていて、閉じると鶴が描かれていたり、グラデーションになっていたりしました。 昔は分業制で、色を塗る人はひたすら塗りの作業をし続けるので、それぞれの工程の技術がどんどん高まっていきました。どれだけ個性を出せるかの勝負だったんだと思います。 現在の職人さんの数はおおよそ30人ほどと聞いています。工房は、私の知る限りでは5軒ほど、和傘の部品を作られている工房が2軒です。 私が和傘作りを始めて8年目なのですが、工房の数自体は変わらないものの辞められている方はやはり何人かいらっしゃいます。ただ同時に新しく始めた方もいらっしゃるので、直近、職人さんの数は大きくは変わっていないと思います。