伝統に挑みながら和傘文化を守り続ける「仐日和」
岐阜県岐阜市は、江戸時代から続く日本最大の和傘産地だ。美しいシルエットときめ細やかな装飾から「開いて花、閉じて竹」と謳われる岐阜和傘は、長きにわたり人々を魅了し続け、2022年3月には国の伝統的工芸品に指定された。 その技術と文化を守りながら、新しい挑戦を続けてきた和傘職人がいる。自身で和傘ブランド「仐日和(かさびより)」を立ち上げた河合幹子さんだ。 今回は、河合さんが和傘職人としての道を歩むに至ったきっかけやものづくりへのこだわり、そして岐阜和傘の課題や展望について話を伺った。
叔父からの連絡をきっかけに、慣れ親しんできた和傘の世界へ
ー河合さんが和傘職人の道を進まれるに至った経緯を教えてください。 母方の実家が和傘問屋を営んでいて、母も経理として働いていたので、私も小学生くらいまでは毎週土日や夏休みをそこで過ごしていました。 その頃は祖母も和傘職人として働いていて、祖母への憧れはずっとありました。母が事務作業をする部屋から祖母の作業スペースが見えたので、夏休みは毎日のように祖母が張りなどの作業をするところを見ていました。 また、たまに百貨店の催事に行って和傘作りを実演している場面を見たりして、大勢の人の前で和傘の作業を淡々とこなす祖母を見て、かっこいいなと思っていました。 でも中学生になり部活が始まるとお店に通うこともなくなってしまい、そのまま高校を出て大学に進学して、東京で和傘とは関係のない職種に就いたんです。 最初は広告代理店で、ホームセンターやドラッグストアなどの折り込みチラシを作っていました。ただ、印刷前は毎週仕事が終わるのが夜中の2時、3時になるので、「これはちょっと続けられない」と思ったんです。 それで岐阜に戻りました。私は簿記の資格を持っていたので、税理士事務所で会計の仕事に就きました。それから2~3年後、27歳か28歳のときに、和傘屋を営んでいる叔父から「人手不足だから手伝ってくれないか」と声をかけられ、叔父の会社に入社したのが和傘の世界に入ったきっかけです。 幼少期から和傘が身近だったこともありますし、「力になれるのであればやりたい」という気持ちでしたね。