【書評】戦後40年以上かけての帰国:石村博子著『脱露 シベリア民間人抑留、凍土からの帰還』
斉藤 勝久
「シベリア抑留」は戦後、57万5000人の日本兵らがソ連に連行されて強制労働を命じられ、その1割が亡くなったことで知られる。だが、13歳の少年を含む民間人も数百人いたことはあまり知られていない。日本領からソ連領になった樺太で暮らし、突然の逮捕から40年以上もシベリアやカザフスタンなどに残留させられた人々の過酷な体験を、本書は明らかにした。
登場する樺太出身の民間人抑留者には大体の共通点がある。敗戦によって無国籍者となり、越境しようとすれば国境侵犯などでソ連軍に逮捕される。さらに形式だけの裁判で囚人となって、シベリアのラーゲリ(収容所)に送られた。労働を強いられ、刑期が明けてもカザフスタンなど遠い地に強制移住を命じられた。言葉も分からず、周囲には日本人はいないから、孤独に耐えるのは容易なことではなかった。戦争で夫を失った現地の女性と生活を共にするケースも少なくない。 この人たちは日本に帰る日を待ち続けながらも、日ソの引き揚げ事業の対象から漏れてしまった。連絡が来ても、現地の家族のことを考え、帰国を断念した人は多い。 一方、日本の戸籍では、生死が長い間、分からなかった彼らはほとんど戦時死亡宣告を受け“死者”となっていた。ところが、1991年のソ連崩壊によって、戦争の傷跡を背負って生き抜いた日本人の存在が分かっていく。
日本産業見本市に現れた男性
ソ連から独立2年後の93年、カザフスタンで初の日本産業見本市の会場に毛皮の帽子姿の痩せた男性が現れた。ロシア語で日本人であることを告げた73歳のA氏(本書では実名、以下同じ)は、こう語り出す。 「樺太で炭鉱夫をしていた。終戦時は九州の炭鉱に移されていたので戦後、樺太に残った家族を捜すため稚内から渡ろうとした。上陸直後にソ連兵に捕まりシベリアのラーゲリに連れていかれた。そしてここ(カザフスタン)まで来た。日本の家族に会いたい。捜してもらえないか」 日本語はほとんど忘れていたが、自分の名前だけは漢字で書けた。現地の女性と結婚し、子供もいる。その妻はすでに亡くなり、独り暮らしだった。年金受給のためソ連国籍を取得したが、ソ連邦が消滅すると国も暮らしも激変。日本の家族を思い出し、日本産業見本市のことを聞いてやってきたのだった。 日本の家族が見つかり、47年ぶりの帰国を果たす。その翌94年に永住帰国し、きょうだいが用意してくれたアパートや妹の家で暮らした。衰えが顕著になると、カザフスタンから娘と孫を呼び寄せてくれた。 「戦争で翻弄(ほんろう)された人生だった。悔しい」。弱みをほとんど見せることのなかったA氏が、腹の底から吐いた言葉である。カザフの家族と最後の語らいの翌年(2007年)に息を引き取った。