【書評】戦後40年以上かけての帰国:石村博子著『脱露 シベリア民間人抑留、凍土からの帰還』
日本の妻とロシアの妻
日本に妻や家族を残した民間抑留者の場合は、話が複雑になる。樺太で漁師をしていたB氏は戦争末期の1945年に結婚。敗戦の翌年、身ごもった妻らと北海道への脱出を図ったが、ソ連の警備艇に見つかり、生き別れとなった。2年の実刑を受けた彼はシベリアのカンスク送りとなり、妻は樺太内の刑務所で服役中に男児を出産し、その後、乳飲み子と帰国した。 B氏は出所後も現地で、木工場で働くなどして、2回の結婚をする。2番目の妻(後に病死)との間には2子が生まれ、連れ子と合わせ5人の子の父となった。日ソ両赤十字の引き揚げ事業で役人が確認に来たが、残ることを決めた。「日本の妻もかわいそうだが、ロシアに子どもたちを残すことはできなかった」 そしてドイツ系の3番目の妻と暮らしていた93年、日本の新聞にB氏ら「シベリア残留日本人」の記事が載り、生き別れた日本の妻が名乗り出た。翌年に74歳のB氏が一時帰国。再婚せずに待っていた妻に「謝りに来た。今はどうすることもできませんが、許して下さい」とわびた。そして初めて会う47歳の息子には何も言えず、嗚咽(おえつ)するばかりだった。 日本の妻の手編みのセーターなどを持ってロシアに戻った夫に、現地の妻は「あなたは日本に帰りなさい」と泣きじゃくった。その後、日本の妻も「(あの人は)もう自分の夫ではない。向こうは苦楽を共にした妻と娘、孫もいる」と胸の内を漏らしていた。 B氏は6回、一時帰国して、88歳で亡くなり異国の墓に眠っている。ロシアにいれば日本を想い、日本にいればロシアを想う。戦争によって大事なものが引き裂かれた人生だった。
13歳の少年もシベリア送り
終戦当時13歳のC氏(本書表紙の右側中央の少年)は樺太から日本に脱出したが、連絡がつかない父や兄妹を捜しに戻り、ソ連の巡視船に捕まった。シベリアでの刑期が終わると、「あと2年働けば日本に帰す」とカザフスタン行きを命じられた。 地元の湖で漁師などをしていた1955年、現地の駅に日の丸を掲げ、元日本兵を乗せた特別列車が入ってきた。C氏は日本に帰る一団だと知ると、自分も乗せてくれと頼んだ。しかし、「この汽車に乗れるのは軍人だけ」とはねつけられる。去っていく列車に向かって大声で泣いた。 その後、ドイツ系の現地の女性と結婚し、カザフスタンで「第1の猟師」の称号を持つ名ハンターとなった。2002年、夫人、息子夫婦らと永住帰国。それから20年を祖国で暮らした。 孤独で最も弱い立場だったシベリア民間人抑留者は、戦後処理において、自分の意思でソ連に残留したと日本政府に見なされ、切り捨てられた。祖国に忘れ去られた彼らの公的資料は乏しいが、ノンフィクション作家が8年かけて書き上げたこの力作は、戦争の悲惨さを強く訴えている。
【Profile】
斉藤 勝久 ジャーナリスト。1951年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。読売新聞社の社会部で司法を担当したほか、86年から89年まで宮内庁担当として「昭和の最後の日」や平成への代替わりを取材。医療部にも在籍。2016年夏からフリーに。ニッポンドットコムで18年5月から「スパイ・ゾルゲ」の連載6回。同年9月から皇室の「2回のお代替わりを見つめて」を長期連載。主に近現代史の取材・執筆を続けている。