新大河「光る君へ」に見る「血筋の秩序」 「血の論理」「家の論理」が息を吹き返したいまの日本
現代に残る「家元秩序」
山村美紗のミステリーは、京都の伝統芸における「家元」をめぐる争いをテーマとする。 およそ日本の伝統文化には「流派」と呼ばれる組織があって、その中心に「家元」というものが存在する。世代を貫いて連続する技術と様式を守り伝える集団の枠組みも「家」と呼ばれるのだ。家元は「血の論理」によって継承されることも多いが、その文化における「技芸の実力」に明らかな差がある場合は、血筋を超えて継承者が選ばれる。とはいえスポーツの世界のような完全に公平な実力主義の組織というわけではない。日本ではこの「血筋の秩序」と「実力の秩序」が融合した「家元秩序」の組織が多く見られるのだ。 たとえば学問の世界でも、旧帝国大学を頂点とする学閥が存在し、力のある教授の弟子たちが要職に就くことが多い。利益を上げる必要のある企業でも、トヨタ自動車をはじめ、世襲的な経営が少なくない。政治家に至っては、2世3世議員がかなりの割合で存在しかつ要職に就いている。 太平洋戦争の後、アメリカ流の個人主義が広がって、法律あるいはタテマエの上では「家」が崩壊したのだが、現実社会のふしぶしには、精神的な意味での「家元秩序」が残っているのである。一時「忖度」という言葉がよく使われたが、これも現代社会に残る「家元秩序」の影響だろう。今話題のパーティー券の販売にも忖度の力がはたらいている。 今、欧米では、移民、難民の問題が大きな政治イシューとなっている。 やがて日本という国家も、この問題に無関心ではいられなくなる。そしてそのさいに、日本社会に残る「血の論理」あるいは「家元秩序」といったものをどういう方向にもっていくのかという問題も起きてくる。自民党の「派閥」についても、歴史的、国際的な視点からの考察を必要とするのではないか。根源的な改革を望みたい。 『源氏物語』も、『平家物語』も、その文章がすばらしい、日本文化の至宝である。現代語訳でも表面的な意味は伝わるが、原文でなければ伝わらないのではと思われる「文化的な奥深さ」というものがある。今後、この日本文化の奥深い部分と、流動するグローバルな国際情勢がどのような関係を切り結ぶのか興味深い。