大震災もコロナも乗り越えたのに「今がどん底」――資金繰り悪化で苦境、「イカ王子」の再出発 #知り続ける
「イカの工場なんてダサい。家業を継ぐ気はなかった」
宮古市で生まれ育った鈴木さんには、共和水産を継ぐ気持ちは全くなかったという。地元の高校を出た後、仙台市の大学へ進学。「華やかな都会は初めてで、遊びたい気持ちが強くて」。遊びやバイトに明け暮れて退学し、仙台市のダイニングバーで働くようになった。 「耳や鼻にピアス、ツンツンの頭でした。地元の人たちの間では『あいつ、ホストになったんか』と言われていましたね。イカを加工する会社なんてダサいし、戻りたいとは一度も思わなかった。だって、イカの工場ですよ。イカは臭くて、さばきたくないし、キラキラしていない。永遠にやりたくなかった。バーの仕事は楽しかったし、飲食業界は自分に合っていると思ってました」 そんなある日、両親がそろって仙台市へ来た。家業を継いでほしいという説得である。ほかの兄弟は一般企業で働き、容易に身動きできない。高い入学金や授業料を払ってもらったのに、大学も中退してしまった。「仕方ないかな」と観念して宮古市に戻り、2005年に父の会社に入社した。 ところが、仕事に身が入らない。 「朝早く市場へ行かないといけないし、ひたすらイカをさばくのは面倒だし。まちには女の子がぜんぜんいない。つまんねえな、と」 そんな鈴木さんの日々は東日本大震災で一変させられた。宮古市を襲った津波は最大で高さ8.5メートル 以上。その巨大な力が人々とまちを襲ったのだ。
大震災で「イカ王子」が誕生
震度5強を観測した宮古市では、沿岸部が大津波に襲われ、517人が死亡、93人が行方不明となった。まちは復興を遂げつつあるとはいえ、今もあちこちに傷痕は残る。 家族と一緒に避難して無事だった鈴木さんは翌日、いつも通っていた市場へ向かった。朝早い時間、港の方向に歩くと、見たこともない光景が広がっていた。瓦礫の山、逆さまになってその上に載っている乗用車、ブルーシートに包まれていた多くの遺体。言葉も出ないとは、このことだと思ったという。
「市場へ着くと、泣いている小学校低学年くらいの女の子が立っていて。話を聞くと、両親がいない、と。倉庫も船もほとんど流されてました。これまで当たり前に見ていた風景がすべて崩壊したら、人って、何も感情を抱かなくなるんです」 共和水産の建物はかろうじて流されなかった。しかし、津波は倉庫を直撃。原材料や商品在庫をすべて失った。被災による借金は1億3千万円に膨らんだ。 「小さいころから『宮古は水産のまち』と言われてきました。水産業はこのまちの背骨なんです。あの光景を見て、フラフラしてられない、と。俺は水産業に関わる人間なんだ、と。震災のど真ん中にいるんだ、と。俺にできることは、すべてすべきだと自覚しました」