人波の面影 新たな風吹く 和歌山・ぶらくり丁商店街 昭和100年 まちの今昔
和歌山市の代表的な商店街「ぶらくり丁」は、昭和の初めから終わりにかけてにぎわいを続けた。特に30~50年代ごろの繁盛ぶりは「歩けば肩がぶつかるくらいだった」と表現される。現在はシャッターを閉じた店が目立ち、かつての面影はない。ただ、静かになっても、中心市街地の一角を占める空間の存在感は大きい。そんな中で新しい商売の風も吹き始めている。 【写真】昭和40年ごろの「ぶらくり丁商店街」西側入り口 ■かつては隆盛 「ぶらくり丁」の名は、各店が商品を軒先に吊(つ)るして販売し、和歌山弁で「吊るす」を「ぶらくる」と表現することからついたとされる。「ぶらくり丁」という単独の商店街が存在するほか、中ぶらくり丁▽東ぶらくり丁▽北ぶらくり丁▽本町▽ぶらくり丁大通り-の周辺5商店街を含む総称としても用いられる。 和歌山城の城下町に位置し、1830年の大火で街並みが焼失したあと、商人たちが集まって商売したのが始まりとされ、ほどなく繁華街となる。昭和20年の和歌山大空襲でほぼ全滅したものの、復興を遂げた。道路舗装やアーケードなども整備され、30~50年代ごろに全盛期を迎える。 「子供のころは人をかきわけて歩いていた。窃盗やスリなどもよく起きて、辻々に警察官が立って警戒していた」。ぶらくり丁商店街にあった呉服店で生まれ育った同商店街協同組合理事長の日茂由萬さん(63)は振り返る。 ■閉店相次ぐ 物販から飲食店、スマートボールなどの娯楽施設に至るまで多業種の店舗が集まり、百貨店や映画館なども複数立地。最先端のものが何でもそろった。一日中滞在する家族連れも多く、好景気と豪勢な消費意欲に支えられ、「大阪ミナミと肩を並べる」ともいわれるほど繁盛した。 転機は全国の状況と同様に、昭和の終わりから平成に入るくらいのころ。 「市電」の廃止で交通の便が悪くなっているところに、和歌山大などの郊外移転や住民の郊外移住などが進み、駐車場を備える大型店出店が相次いだ。ぶらくり丁界隈(かいわい)は客足が徐々に遠のき、集客力のあった百貨店などの大型店や映画館が続々閉店・閉館。インターネット通信販売も始まり、商店街各店舗の閉店も続くようになる。 さまざまな活性化策が施されたが、流れは変わらない。一定の集客がある店はあるものの、点在しているのが現状だ。「お客さんがわざわざ来てくれる店になることが大事。商店街は、その集合体となるのが理想だ」と日茂さんは話した。