主治医が突然辞職、さらに「多発性囊胞腎」の症状が肝臓にまで及び、肝臓が5キロに肥大…移植腎が廃絶して再透析に至るまでの9年の経緯
「私たちは必死に生きた。しかし、どう死ねばよいのか、それが分からなかった」 なぜ、透析患者は「安らかな死」を迎えることができないのか? どうして、がん患者以外は「緩和ケア」を受けることさえできないのか? 【写真】9年間働いてくれた義母の移植腎… 10年以上におよぶ血液透析、腎移植、再透析の末、透析を止める決断をした夫(林新氏)。その壮絶な最期を看取った著者が記す、息をのむ医療ノンフィクション、『透析を止めた日』(堀川惠子著)が刊行された。 『透析を止めた日』は、これから透析をする可能性のある人、すでに透析を受けている人、腎臓移植をした人、透析を終える時期が見えてきた人だけでなく、日本の医療全般にかかわる必読の書だ。 本記事では、〈透析で精一杯のころは、「自分の将来」ですら語れなかった…移植手術の「術後経過」と移植腎の「実力」〉につづき、移植腎が廃絶するまでを見ていく。 ※本記事は堀川惠子『透析を止めた日』より抜粋・編集したものです。
肝囊胞の追い打ち
2014年3月、ちょっとした「事件」が起きた。 慶應病院の林の主治医が突然、病院を辞めたのだ。 看護師の噂では、院内の教授ポスト争いに敗れて千葉県内の病院に移ったというが、真偽のほどは分からない。主治医のみならず、主治医の助手的な立場で患者の診察や入退院に細かに対応してくれた若手のドクターも一緒に辞めたので、影響は大きかった。慶應病院では暫くの間、腎移植が行われなくなったほどだ。院内の移植患者のほぼ全員が、その主治医と助手のドクターにお世話になってきた。私たちは置き去りにされたような心細い気持ちになった。 主治医は、なんといっても林の腎臓や血管の状態を直に見て知っている。主治医にとっても林は、自分が移植手術を促して執刀した患者だったから、トラブルが起きたときの対応は早く、頼りになった。よほど千葉の病院に付いて行きたかった。しかし自宅からの所要時間などを調べると、定期的に通うのは現実的ではなかった。林の全身状態が悪化していく時期とも重なって、このころから私たちの「漂流」が始まった。 同じころ、林がこんなことをつぶやいた。 「俺の腹、なんか出てないかな?」 林のお腹が少し膨らんで見えることは少し前から気になっていた。下腹部のぽっこりではなく、胸の下から全体が張っている感じで、手でふれると、パンッ、と内側からの圧を感じる。脂肪の少ない身体だったから、お腹だけが目立つ。 慶應病院で、新たに林の主治医となったのは、同じ泌尿器科の若手の医師だった。 腹部の張りの件を相談してみると、 「水分の取りすぎですかねぇ」 という程度で、最初は本気で取り合ってもらえなかった。しかし素人目にも、むくみとは感触が違う。原因が判明したのは、腹部エコーを行ったときだ。肝臓が肥大していた。多発性囊胞腎の症状が、肝臓にまで及んでいた。 腎臓にできた囊胞は、すでに腎臓本体が廃絶しているので、癌化する恐れはあっても大きくなることはない。肝臓のほうは正常に機能しているから、囊胞に栄養や水分が届いて大きくなりやすい。健康な男性の肝臓は1少々というが、林の肝臓は、画像からの推定で4~5にもなっていて、腹部に圧迫症状が出始めていた。 このまま肝囊胞が増え、さらに大きくなっていけば横隔膜を押し上げて呼吸困難を引き起こしたり、食事ができなくなったりする。やがては肝臓そのものが機能を失い、死に至る。それでも肝臓は沈黙の臓器といわれるように、見た目の異様さとは裏腹に血液検査の肝機能の数値はすべて正常に収まっている。 これまでは移植腎のことだけを考えていればよかった。それが突然、肝臓もふくめ二正面の戦いになった。移植腎は失っても透析という手がある。しかし、肝臓は替えがきかない。 私は、林と同じ難病を患う人たちのブログやツイートを日常的にチェックしていた。林と同じく腎臓と肝臓に囊胞を患う若い女性が、医師から言われたという、こんな衝撃的な言葉を書いていた。 〈この病気は、最後は何も食べられなくなり、餓死するしかない。だから次に入院するまで、しっかり好きなものを食べておきなさいと言われた。〉 彼女のブログは、数年前に更新が止まったままだ。 慶應病院の主治医は、そのうち肝臓の部分切除手術を行う必要があるかもしれないという。しかし大量の出血が予想される手術に、今の移植腎が耐えられるのか。ならば肝臓の部分切除手術を行う前に私の腎臓を移植し、体調を整えてから肝移植を行ってはどうか。いや、再移植した腎臓まで廃絶しないよう、再移植は肝臓の手術の後で……、と堂々巡りになる。 主治医は、私たちが色々と質問しても、突っこんだ話はしようとしない。医学的な情報が彼から提供されることもほとんどなかった。考えてみれば「難病」なのだから、そう簡単に解を提示できるはずもない。 私たちは仕事の合間をぬって、林の診療記録や画像データを持って、移植医療を手がけている大病院のセカンドオピニオン外来を訪ね歩いた。すると林のケースは、肝臓の部分切除は難しそうなことも分かってきた。大きな囊胞が少数だけなら切除したり、囊胞の中にアルコールを入れて固定して囊胞が大きくなるのを止める手術もできる。 しかし林の場合は、小さな囊胞が広範囲に及ぶ。切除すれば大量の出血が予想されるし、手術が成功しても、囊胞の増大は止まらない。結局、肝臓移植しか方法がない。 移植手術の実績が豊富な東京大学医学部附属病院には少しだけ期待をしてセカンドオピニオン外来を訪ねたが、この症例の手術には対応できないと断られた。 順天堂大学医学部附属順天堂医院では、若い女性の医師が何を勘違いしたか、「これならうちで手術できますよ」と明るく対応し、ぬか喜びさせられた。2度目の診察で一日中、各科をたらいまわしにされたあと、「やはり、うちでは対応できません」と宣告され、心身ともにへとへとになった。 杏林大学医学部付属病院では、ある治験が好調で、遠くない将来に多発性肝腎囊胞の新薬が発表できるかもという趣旨の情報をネットに掲載していた。藁にもすがる気持ちでセカンドオピニオン外来を訪ねると、対応した教授は申し訳なさそうな顔で、「あれは結局できなかったのです」と言われた。ネット情報というのは、どうしても時差が出る。なるべく丁寧に情報を更新してほしいものだと思った。 結局、いくら病院に足を運んでみても、最後は気の毒そうな顔で断られるという徒労の繰り返し。だから難病なのだという現実を思い知らされた。そういうとき、帰路の車中は二人とも押し黙ったままで、空気は重かった。 iPS細胞の作製でノーベル賞を受賞した山中伸弥教授に関連するニュースがテレビで流れるたび、林は独りごちた。 「一日でも早く実用化に成功してほしいなぁ。俺には時間がないよ」 不治の病を背負わされた難病患者にとって、再生医療はわずかに残された希望の光だ。しかし、患者の切羽詰まった願いに反して、その進捗のペースはもどかしい。 東京・広尾にある日本赤十字社医療センター(日赤医療センター)のセカンドオピニオン外来を初めて訪ねたのは、2014年のことだ。 この病院の院長は、肝臓移植手術で有名な外科医だった。国内で3例目の生体肝移植を成功させた人で、多発性肝囊胞の術例も多く、血管をつなぐ手技は神業、術中ほとんど出血をさせず、予後もずば抜けて良い、との評判で知られていた。NHKで2007年、「プロフェッショナル」という番組の主人公として特集されたこともある。 高齢で小柄だが、目つきは鋭い。私たちが診察室に入ると挨拶もなく、二人の体格に一瞥をくれた。すぐパソコンに向かい、林のデータを食い入るように無言で眺めた。 暫くして視線をこちらに移すと、早口でまくし立てるように言った。 肝臓と腎臓を同時に移植する「肝腎同時移植」しか手はないでしょう、やるなら私が執刀します、前例はあります。慶應で? それは無理でしょう、体力のあるうちに手術したほうが予後は良いが仕事は休めますか? お金も結構かかりますが用意はできますか? ドナーの心当たりは? と矢継ぎ早の尋問。 ドナーについては、「肝臓でも腎臓でも、私が提供します」と即答した。するとドクターはさらに鋭い眼でこちらを探るようにうかがい、 「奥さん、ドナーが1人という例は過去にないことはないが、腎臓も肝臓も両方取れば、貴女の寿命も10年は短くなりますよ、それでもいいですか」 「もちろん覚悟のうえです」 そう答えてはみたが、初対面の場で、しかも短い外来の時間に、手術日まで即断できるはずもない。私たちは説明だけ聞いて、改めて出直すことにした。 後日、慶應病院の診察日。若い主治医に日赤医療センターでのセカンドオピニオンの内容を報告した。主治医は日赤のドクターの存在はよく知っていたが、「肝腎同時移植」という言葉に「そんなこと、できるんですか!」と目を点にしていた。 海外では普通に行われる肝腎同時移植だが、国内で術例は多くない。それでも当時の私たちにとって、肝腎同時移植の話は「最後の手段」として心にしまわれた(肝移植学会のアンケート調査では、国内で2020年までに脳死者から30例の手術が行われている)。 このころ林は、人生の幕引きを意識していたのか公私ともに大車輪で動いた。いきなり「家を建てる」と言い出したのには頭を抱えた。狭くても駅近のマンション暮らしが気に入っていた私は、面倒な一軒家などごめんだった。「普請疲れ」という言葉があるように、意中の番組を放送する前に体力を奪われてしまっては元も子もない。 ある晩、彼は、一軒家に大反対の私に反論を言いたいだけ言わせた後、ぽつりと一言、決め台詞を放った。 「俺は、このマンションで死にたくない」 結局、あちこち物件を見て回り、林の両親が暮らす隣町にささやかな土地を求めた。 両親のどちらかが一人になったら共に暮らすことを考えてのことだ。義母は大喜びで、まだ家も建っていないのにひとりで何度も土地を見に来た。その姿に、これで恩返しができるのならと、私も渋々、自分を納得させた。 空き地のまま年を越すと固定資産税が跳ね上がるので、平日は仕事、週末は家の設計という生活になった。小さな家だが、林は設計を練りに練った。建屋の設計から部屋の配置、フローリングの木の種類にドアのデザインまで、次々にアイデアを出した。そういう作業に無関心な私の態度に毒づきながら、照明や壁紙の色までも細かくデザインした。 中でもこだわったのが書斎だ。 「惠子は、集中したら病室でも電車でもファミレスでもどこでも書けるだろう。でも、俺には部屋がいるから」 というアンフェアな理由で、私の書斎は台所前のささやかなワークスペースと書庫。彼の書斎は2階の一番広い部屋に陣取った。壁には埋め込み式の重厚な書棚をびっしり作り、大きなデスクを2つ、L字形に繫げ、まるで大作家のような構えだ。 書斎のすぐ前に植える庭木については、わざわざ植木業者を呼んで注文した。 「ここだけは、生長の速い木をお願いします」 私は「生長の速い」という彼の言葉にドキッとした。 「3年もすれば、2階の窓を追い越しますよ」 業者が太鼓判を押して選んだのは、カシの木だ。デスク越しの窓の外に青空が広がり、若いカシが柔らかに枝を揺らす、そんな光景を想像した。彼にとってこの家は、将来作家になるという中学時代からの夢を叶えるための人生最後の舞台だったのだろうと、今なら思える。