主治医が突然辞職、さらに「多発性囊胞腎」の症状が肝臓にまで及び、肝臓が5キロに肥大…移植腎が廃絶して再透析に至るまでの9年の経緯
命を削って
2015年4月18日、林が企画したNHKスペシャル「日本人と象徴天皇」は無事に放送された。それまでの数ヵ月のことは、もう思い出すのも辛い。 前年から貧血がひどくなり、月に1度は輸血が必要になっていた。番組の編集が佳境に入ると、輸血は毎週になった。朝一番に慶應病院で輸血をし、そこから出社する。私は前回と同様、毎晩、NHKの西口玄関に車を停めて彼を待ったが、帰宅は常に午前2時をまわった。終戦までを扱った前作に比べ、今作はまさに現代に続く話で、局内では政治的にも神経を使う交渉が続いた。 真夜中、薄暗い西口玄関から歩いて出てくる姿は弱々しかった。車に乗りこむと助手席に沈み込んで小さくなる。私が用意したゼリー状の湯たんぽを抱きしめ、その日の編集の具合をポツリポツリと語りだす。 前作のときは一方的な独演会になったものだが、このころはよく、 「で、惠子はどう思う?」 と、珍しく私に意見を求めた。それがどこか悲しかった。 本来なら否定的な意見をガンガンぶつけて揉みこまねばならないところだが、議論などとても吹っ掛ける気にはなれなかった。 家に着いてソファに倒れ込むと、しばらくは動けない。顔はむくみ、脚はパンパン。膝から下は象の脚のようで足首もない。いくらオイルでマッサージをしても追いつかない。少しでも興奮を和らげて睡眠がとれるよう、私は必死に手を動かした。長く生きることよりも、仕事する道を、私たちは選んだのだ。今さら後戻りはできない。とにかく番組が完成するまで彼を倒れさせてはならないという一心だった。 このころ、移植腎は最後の踏ん張りを見せていた。クレアチニンは3台後半を辛うじて維持していて、尿量も700~800前後。しかし、タンパク質の代謝によって体内に溜まる老廃物を示すBUN(血中尿素窒素)の数値は徐々に悪化し、70mg/dL(基準値8~20)前後で高止まりしたまま。透析の再開を考える段階が徐々に近づいていた。 なんとか無事に番組が放送されたあと、すぐに退職すると思っていたら、彼はそこからさらに1年粘った。今度こそ退職を強く促したが、聞く耳は持たない。60歳までは勤めたい、そんな気持ちがあったのかもしれない。新しい企画書も何本か書いたが、現実は這うように出社し、デスクに座っているだけで精一杯という風だった。 2016年が明けると、移植腎は悲鳴をあげた。 クレアチニンは5台、BUNに至っては100mg/dL以上に上昇することもあった。尿は700前後出ているが、倦怠感や息切れがひどい。もっと早く透析を再開していれば予後は違ったかもしれないが、主治医は言いにくそうにしているし、林もそれを口にすることを避ける。透析再開の決断は、気持ちのうえで簡単なことではなかった。 * さらに【つづき】〈9年間働いてくれた義母の移植腎…長年勤めた職場を離れ、再び制約の多い透析生活に戻るまで〉では、透析を再開するまでについて見ていく。
堀川 惠子(ノンフィクション作家)