女性の地位向上に尽力した母・加藤シヅエ、オードリー・ヘプバーンの決意…娘・加藤タキが語る「女性の未来」
3月8日は「国際女性デー」です。イタリアでは「ミモザの日」とも呼ばれ、春を告げる花・ミモザに愛と感謝の気持ちを託して、女性にミモザの花束を贈る習慣があるそうです。 ミモザの花の開花とともに毎年巡ってくる「国際女性デー」は、1975年、国連によって制定されました。女性差別の撤廃や平等な環境の構築を広く呼びかける啓発活動の日として、「国際女性デー」には、世界各国でさまざまな記念行事が開催されます。婦人解放運動の先駆者である加藤シヅエさんの足跡を、娘である加藤タキさんと一緒にたどってみましょう。 <写真>加藤シヅエさんとタキさん。1999年、シヅエさん102歳の母娘の肖像
加藤シヅエ|日本女性のいまの自由をつくったひとり
「人間は、誰でも人生哲学というものを持って、自分はどう生きるべきかということを、考えなくちゃいけません。自分の人生を実り多いものにするためにね。私はいままで自分のしてきたことに対して、少しも後悔はしておりません。若い頃から、家族計画運動を推進してきたことや、華族の身分を捨て加藤勘十と再婚して、社会運動に身を投じたこともね」 これは、政治家で婦人解放運動家の加藤シヅエさんが101歳の時に語った言葉です。まだ女性が「一人の人間」として人権をもち得ていなかった時代から、女性の地位向上や差別撤廃のために生涯を捧げ、104歳で天寿を全うした人の心の内です。 1897(明治30)年、東京の裕福な実業家の家で生まれたシヅエさんは、1914(大正3)年に女子学習院中等科を卒業すると、同年、男爵・石本恵吉氏と結婚。ほどなく二人の男児をもうけますが、1919年に夫の勧めで幼子を日本に残し渡米。ニューヨークのバラード・スクールで秘書学を学びます。 留学中、巡回保健婦で避妊知識を広めていた活動家のマーガレット・サンガーと出会い、「女性が自分の性をコントロールできなければ、真の自由はあり得ない」と説く「産児調節」の重要性を知り、日本の社会にも導入・浸透させることを生涯の使命としました。母体保護、産児調節運動への情熱を駆り立てたのは、かつて目の当たりにした悲惨な現実でした。 <写真>衆議院議員に初当選したころの加藤シヅエさん。