女性の地位向上に尽力した母・加藤シヅエ、オードリー・ヘプバーンの決意…娘・加藤タキが語る「女性の未来」
オードリー・ヘプバーン|貧困国の子どもたちへの支援に尽力
コーディネーターの草分けとして、ソフィア・ローレン、フランク・シナトラ等、錚々たる海外のアーティストをコーディネートしてきたタキさん。その中でも厚い信頼を寄せられ、気脈を通わせるようになったのが、国際的女優であり、妖精といわれ世界から愛されたオードリー・ヘプバーンでした。 オードリー・ヘプバーンは1929年にベルギーの首都ブリュッセルに生まれました。10歳の時に両親が離婚。戦時中は母の故郷であり、当初は中立国であったオランダで過ごしました。1953年に『ローマの休日』で主役を射止めると、その後は輝かしいスターの道を歩くことになります。 「1982年パリでのCM撮影のとき、ディレクターが『ローマの休日』の大きな写真を背景に、現在の彼女を撮る提案をしたんです。それまで協力的だった彼女が、そのことに対しては毅然と『ノー』と言い放ちました。『この映画ではアカデミー賞もいただいたし、 世界中で人気者にもなりました。けれどこの時の私の心をどなたが知っていますか? あれから何十年も経ち、私の顔にはシワやシミもできました。でもいまもこうして明日に向かって生きています。その私を見てもらいたい。この写真が後ろにあるということで、いつまでも過去の人気にすがっていると誤解されることが嫌なんです。私の顔は自分史なんです』とはっきり言い切ったんです。周りは納得のひと言でした」 過去の栄光や表面的な美醜に囚われることをオードリーが一蹴していたことを、このエピソードは物語っています。一方、タキさんとは女子トークを繰り広げるやわらかい面も持ち合わせていたとか。 <写真>1983年、初来日した折のオードリー・ヘプバーンとタキさん。下はオードリーのサイン。
「40年以上も前ですが、ロケの合間に“どういう男性がタイプか”という話題になり、オードリーさんが『A strong man!』と即答しました。しかしすかさず、『タキはいま、マッチョな男性を思い浮かべたでしょう。そうではないの。挫折を経験したことがある男の人よ。そういう人は他人の心の痛みもわかるし、優しさと本当の強さがある』と補足したことが印象的でした。 それと同じことを母も言っていましたね。傷ついた時にどうやって立ち上がるかを知っている人が、本当に強い人。そして、傷はやがて癒えるのだと」 戦後、ユニセフの前身の 「UNRRA」に助けられ、その後女優として大きな成功を収めることができた経験から、1988年にユニセフ親善大使に任命されて以降は、残りの人生を貧困国の恵まれない子どもたちへの支援活動に充てると決意し、戦争や災害で苦しむ地域を歴訪しました。 「オードリーさんがユニセフの親善大使になったら、全世界でものすごくお金が集まったんです。それを知った彼女は『有名になってよかった。私はこのために女優をしてきたんだ』と言いました。とてもその比較にはなりませんが、私も『AAR』で似たような経験をしています。募金箱を持っていると、私を目に止めて募金してくださる方がいます。人寄せパンダと言われても別にいい、このことで救える命があるのなら構わないと思っています」 母・シヅエさんに次いでタキさんがお手本とするオードリー・ヘプバーン。両親の別離や戦争、世界的スターとなった体験すべてが、彼女の人格を形成し、唯一無二の顔を形づくったことは疑いようがありません。 「グルメだとかファッションだとか、そうしたことに時間やお金を使うだけではなく、どういうふうに生きるのかを自らに問いかけることが大切です。母に言わせると“使命感”ですが、“生き甲斐”と言ってもいい。本当は何がしたくて、誰の役に立てるのかということを考え、そして実践すれば、人生はより豊かになるのではないでしょうか」