女性の地位向上に尽力した母・加藤シヅエ、オードリー・ヘプバーンの決意…娘・加藤タキが語る「女性の未来」
17歳で結婚するとすぐに炭鉱技師の夫・石本恵吉氏に伴い三井三池炭鉱に赴任して知ったのは、多産と貧困にあえぐ女性たちの姿でした。妊婦が臨月ぎりぎりまで坑内で働き、坑内で出産することもあったといいます。数日後には青い顔をしたまま仕事に戻る女性たち。シヅエさんはその悲惨な暮らしに胸を痛め、望まない妊娠の悲劇を防ぐために社会の改革が必要だと確信します。 娘の加藤タキさんは言います。「やはり最初の渡米(1919年)でのカルチャーショックは大きかったようです。アメリカでは女性にもそれぞれ人格があり、男性と変わらず一人の人間として扱われていることに感動したのでしょう。ですが帰国後の日本は戦時体制に入り“産めよ・増やせよ”の大合唱。女性はそのためのマシーンとすら考えられていた節がありました。 母は面と向かって嘲笑されたり、“マダム・コントロール”というあだ名をつけられたりして、かなりの逆風を受けたようです。でもそのたびに少女の頃、自宅で叔父たちが開いていた勉強会で知ったジャンヌ・ダルクの話を思い出し、奮起したのだと言っていました」
その後、シヅエさんは“日本のサンガー夫人”として、1931年に「日本産児調節婦人連盟」を設立し会長に就任。1934年には「産児調節相談所」を開設し、アメリカへ2度の講演旅行に赴きます。夫・石本氏は満州に赴任するも音信不通となり、1944年に離婚が成立。同年、シヅエさんは“火の玉勘十”と呼ばれた労働運動家の加藤勘十氏と再婚。タキさんが誕生したのは、シヅエさん48歳のときでした。 1946年4月10日、戦後初の総選挙である第22回衆議院議員総選挙では、約1380万人の女性が初めて投票用紙を手にしました。シヅエさんはGHQの要請を受けて日本社会党から立候補し、東京二区最高得票数で当選。日本初の女性国会議員として39名の一人に選出。選挙公約で、家族計画、女性の社会的・経済的地位の向上など、アメリカ式自由民主主義の導入を説きました。夫・勘十氏も愛知地区でトップ当選し、夫婦で政界入りを果たしたのです。 1974年の引退まで、約30年の長きにわたり政治の世界で仕事を続けることができたのは、シヅエさんの揺るぎない信念と、それを支持する仲間や有権者の存在があったからでしょう。夫の勘十さんは警察に検挙された回数が100回を超えるほど芯のある人で、シヅエさんの一番の理解者であり、アドバイザーでした。 <写真>1956年頃の加藤シヅエさん。国会議事堂議場にて。