ビッグすぎるプロレスラー伝説…「ジャイアント馬場」が片手だけでつかみとった「1万円札」は総額いくらだったか
馬場の心優しき伝説
通学時に電車が混むと、邪魔だと思われるのを防ぐため、最初から連結部に身を隠した。 本人は野球をしたいのに、合うスパイクのサイズがなく、野球部に入れなかったことも。後日、顧問が特注のスパイクを作ってくれて入部し、果ては読売巨人軍に入団するわけだが、その2年目にはまさに巨人症が一因の大病を罹患する。 成長ホルモンを多く出す下垂体腺腫の肥大により、視神経が圧迫され、急激に視力が低下したのだ(診断名は脳腫瘍)。開頭手術を受けたが、事前に医師からは「目が見えなくなる可能性が高いので、今のうちにマッサージ師の勉強をしておきなさい」と言われるほどだった。 無事、快方に向かい、その巨体を利してプロレスラーとして成功するも、リングを降りれば大向こう受けを嫌うシャイな人柄は変わらずだった。 1995年の阪神大震災では、被災した全日本プロレスのファンクラブ会員1人1人に電話をかけ、必要なものを聞き出し、車に積んで配った。試合会場で集めた義援金で、兵庫県の明石公園内に犠牲者を悼む慰霊碑を建ててもいる。特記がないゆえ、これが馬場による建立物だとは分かりにくい。わずかにその石碑の高さが、209センチというところに、馬場らしさを残している。自身の身長と同じなのだった。 そんな馬場が、1万円札のつかみ取りにチャレンジしたことがあった。果たしていくらをつかんだのか――。 この催しがおこなわれたのは、1965年12月21日。場所は、有楽フードセンター(※現在の銀座インズ)東館1階ホールで、催事名はズバリ、 「ジャイアント馬場は1万円札を片手で何枚つかめるか」 正午から始まったこのイベントに、観覧無料とはいえ、1200~1300人の観客がつめかけ、会場はギッシリ超満員に。事前に公募形式で金額を当てるクイズも出されており、こちらは約13万通もの応募があったという。 そもそもこの1965年は、前年開催の東京オリンピック特需の引き締めの反動で、多くの企業の業績が悪化した“証券不況”と言われる年だった。1万円札のつかみ取りという意外性も含め、馬場の快挙を期待する向きは多かったようだ。 因みに昨年12月、札幌の狸小路商店街で行われた現金つかみ取り大会では、予選を勝ち抜いた40代男性が1万円札のつかみ取りに挑戦。76万円を文字通り手中にしている。