“白壁の町”岐阜・飛騨市でディープな「古川祭」と「朴葉寿司」の秘技に迫る【第3回】
ふだんは、小川に放流した鯉を守り、朝市で交流し助け合う美しい町、飛騨・古川の人びとは、祭りになるとなぜ豹変するのか? ある季節になると、町のお母さんたちがいっせいにつくり始める朴葉寿司とはどんなものなのか? これまで世界を渡り歩いてきたノンフィクションライターの白石あづさが、飛騨市の古川町に深く入り込み、考察しました。
白壁の蔵や民家が立ち並ぶ美しき町の獰猛な生物
「飛騨高山の奥座敷」と称されてきた飛騨市古川町。北から南から、暗い山道を歩き峠を超えてきた昔の旅人は、ペルーのマチュピチュのように突然、出現する美しい町に驚いたことだろう。 飛騨古川駅から少し歩けば、目に眩しいほどの白壁土蔵群が立ち並ぶ通りに出る。道沿いには立派な古民家や蔵が目につくが、これらは、いまも市民が暮らしているふつうの家々で、大きな観光地である隣の高山市とは違った生活感があっていい。 加えて旅人を驚かせるのが、蔵の脇を流れる幅2mほどの瀬戸川だ。ただの用水路かと覗けば、透き通った水の中を鯉がスイスイと泳いでいる。しかも次から次へと群れになって。小川がきれいな古い町はときおり見かけるけれど、鯉の群れは珍しい。
「鯉の謎」を知る前に、まずは山に囲まれた古川町の歴史をおさらいしよう。町が整備されたのは、安土桃山城時代の終わりの1589年以前。飛騨国高山藩初代藩主の金森長近の養子で二代目の金森可重(かなもり・ありしげ)が、増島城を築き、京都の町並みをお手本として古川の城下町をつくったという。町の歴史は長いけれど残念ながら江戸時代の建物はほとんど残っていない。明治37年(1904年)に起きた古川大火で町のほとんどが焼き尽くされてしまったからだ。それで、以前にも増して防火に優れた白壁土蔵の建物が建てられたそうだ。 町の再建に力を尽くしたのが、昔から全国にその名を轟かせていた「飛騨の匠」たち。このあたりは山ばかりで作物も少なく年貢を納めるのが難しいため、昔から米などの代わりに毎年、都に大工技術者を送っていた。つまり人が年貢の代わりだったのだ。彼らは真面目で技術も高いことから尊敬の念を持って「飛騨の匠」と呼ばれ、古くは日本書紀などにもその仕事ぶりが書き残されている(ただし、飛騨の匠と呼ばれ出したのは日本書紀より後の時代とされる)。 大火の後、再建された古川の民家の軒下をよく見てみると、飛騨の匠の「俺が建てたぞ」という自己主張のサインが残されている。神社仏閣によく彫られている「雲」の彫り物を民家に活用したものだ。匠ごとに「雲」の形は違うので、家々を見比べてみるのもおもしろい。 話を瀬戸川の「鯉の謎」に戻そう。実は高度経済成長時代に汚れてしまった瀬戸川を昔の姿に戻したいと地元の人たちが自ら川を掃除し、鯉を230匹ほど放したそうだ。鯉が泳いでいれば川を汚そうとは思わない。大切にされ丸々と太った鯉たちはいまでは1000匹を超えた。人の気配を感じると「何かくれ!」とばかりに荒ぶる鯉たちがバシャバシャと水音を立て、パクパクと口を開けて寄ってくる。 ああ、どうしたら? とうろたえるも、川沿いに「鯉の餌100円」と書かれた木箱が目に入る。なんともぬかりがない。お金を入れ、餌をポイポイ川に投げると、何十匹もの鯉たちが先を争って集まってきた。