僕が内定していたTV局を蹴って、小さな自動車雑誌の編集部員を選んだ理由
自動車ジャーナリストのレジェンド岡崎宏司氏が綴る、人気エッセイ。日本のモータリゼーションの黎明期から、現在まで縦横無尽に語り尽くします。 岡崎宏司の「クルマ備忘録」 今年、モータージャーナリストとして60年を迎えた筆者。しかし最初に夢見たのはシナリオライターでした。大学時代はTV局でアルバイト、卒業時には内定までもらっていったのに……。
僕がモータージャーナリストになるまでの道程
僕がモータージャーナリストの仕事を始めたのは1964年。60年前だ。 前にも話したが、元々、僕が目指していた職業はシナリオライター。大学を卒業する数カ月ほど前まではそうだった。 僕の父は、サラリーマンだったと同時に、童話作家であり、子供向けラジオ番組の台本なども書いていた。 そんな影響を受けたのか、、父親の本を読んだり、ラジオ番組を聞きながら、なんとなく憧れを持つというか、「物書きの仕事をしたい」と思うようになっていったのだろう。
青山学院中等部1年の時、毎日中学生新聞(2006年で休刊)が募った「全国中学生綴り方コンクール」に応募。「優勝した!」ことも、そうした気持ちをさらに後押しした。 このコンクールの優勝のご褒美は、羽田から北海道まで飛行機で往復。洞爺湖で2泊するという、、当時としてはとてつもない贅沢な旅だった。 とくに、1953年、、71年前に飛行機に乗れたのは、まさに「夢のような!!」出来事であり、僕の一生の宝物になっている。 でも、時が経つにつれ、物書きになることへの憧れは徐々に薄れていった。 青山学院中等部、高等部での楽しさにどっぷり浸かり、友人たちとの付き合い、16歳になってすぐ乗り始めたオートバイに夢中になるなど、、フル回転で「青春を満喫」した。 大学もエスカレーターで青山学院に進んだが、将来への具体的な目標はぜんぜん見えていなかったし、見ようともしなかった。
単位を取れるギリギリの出席/勉強しかせず、ほとんど遊びに明け暮れる日々だった。 でも、、シナリオライターになるという想いが完全に消えたわけでもなかった。ぼんやりながらだが、頭の片隅にはあった。だから、クラブ活動も「放送研究会」に入った。 、、のだが、まるで面白くない。どんなクラブ活動の内容だったか、ほとんど覚えてもいないが、、要は、僕の期待したようなクラブではなかった。で、結局、早々に退部した。 ところが、いよいよなにもやることがなくなり、将来への目標もさらに虚になってしまったことが、結果的には良かった。 そう、、どん底状態(とはいっても悲壮感など欠片ほどもない)になってしまったことで、もう一度、「シナリオライターになろうか」という思いが湧き上がってきたのだ。 で、なにをしたかというと、、青山学院大学をやめ、日大芸術学部放送学科に入ったのだが、、授業が面白かったかと問われれば、答えは「ノー」。