僕が内定していたTV局を蹴って、小さな自動車雑誌の編集部員を選んだ理由
「花形のTVディレクター」から「誰も名も知らない小さな自動車雑誌の編集部」への変更に、家族はガッカリしていただろう。でも、誰もなにも言わず、受け容れてくれた。 僕はクルマの試乗にも、記事を書くことにも夢中になった。朝の4時~5時まで仕事をして、始発電車で帰宅することも日常だった。 大好きなクルマに乗り、評価をし、批評を書く仕事は、予想以上に面白かった。やり甲斐もあった。 そして、1年も経たない内に、「これが僕の一生の仕事になる」との思いは確固たるものになっていった。 あれから60年が経ったが、この仕事を選んだおかげで、世界中を走り回り、多い時は10紙誌にも及ぶ連載ページをもった。 自動車雑誌だけでなく、一般紙誌からの原稿依頼も多かった。中央紙で1ページ全面の署名入り週1の連載を10年続け、著名週刊誌で750回の連載を書いた。
まさにハッピーでラッキーな仕事人生を送ることができたのだ。 フトした思いや出会いで、人生は大きく変わる。シナリオライターへの夢がより膨らむはずだったTV局のアルバイトで夢が萎み、父のひと言で飛び込んだモータージャーナリズムの世界で、思いもよらぬ大きな夢を掴むことができたということだ。 もしも、TV局のアルバイトが面白かったら、僕はヒット作を書けるシナリオライターになれていただろうか、、。面白いTVドラマを観ているような時、ふとそんな想いが頭を掠めることもある。、、が、すぐに消える。 60年前、「当時は誰も知らないような自動車ジャーナリストという職業」を選んだ幸運を、ただただ「神に感謝する」だけだ。 ちなみに、フォード マスタングの挿絵は、1964年、初めての海外取材での1コマ。場所は、サンタモニカビーチ前の大通りです。
● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。
文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽