喫茶店でコーヒーを飲む金もないのに…精神疾患のある人が頑固に「支援」を拒否していた意外な理由
障害を抱えた子を「小遣い」「仕送り」で養うことの是非
このエピソードを、大昔のことのように感じる読者もいることと思います。しかし現在も、和田さんのように障害を受け入れられず、支援につながらない人や、あるいはそのような人を「小遣い」「仕送り」だけで支えようとする家族は現実に存在します。 それが悪いことだとは申しません。しかし、小遣いをもらう本人は親の顔色をうかがいつつ、心苦しい思いをしながらお金を使うことになります。親も、使い道にあれこれ口を挟みがちになるでしょう。そのような関係性は、やがて行き過ぎた依存や支配といった、歪んだ人間関係を生じさせるおそれがあります。 和田さんの活動範囲が制約を受けているのも、気になるところです。経済力がないために彼の居場所は作業所に限られることとなり、仲間と喫茶店に行くことすらままならなかったわけです。これでいいのでしょうか? 和田さんと他者、そして社会の間で、新たに結ばれる可能性のあった接点が失われてしまったのに……。 精神疾患や発達障害は、和田さんの「ほんの一部」です。疾患があるからといって、人間的価値が損なわれるわけではありません。障害年金のような経済的支援を受けることが、社会に甘えることだというのも誤解です。甘えどころか、経済的支援は「自立」を支える強力な土台になり得るのです。次にそのことを明らかにしてくれるエピソードをご紹介します。
障害年金の受給が「生きづらさ」の緩和につながった長嶋さん
18歳の時に統合失調症の診断を受けた、長嶋さん(仮名)という方がいました。私と出会った当時の年齢は32歳。彼は一般就労ができれば障害を克服できると思い、果敢にフルタイム労働に取り組むものの、うまくいかず、そのたびに自信を喪失していました。 精神疾患にはいろいろな特徴があります。たとえば「見た目にはわからない」「症状に波がある」というのがそうです。疾患を抱えていても、外見上は他の人と何ら変わるところがありません。症状が出て初めて、他者にも自分にも「疾患がある」と認識されるのですが、それでも強い症状がずっと出続けることは少なく、症状がまったく出ない時期もあります。 見ただけではわからず、ときに凪のように症状が鎮まる……そんな疾患だからこそ、それを抱えている本人は、自分の状態を受け入れられず葛藤します。自分が「普通」であることを、周囲にも、そして自分に対しても証明しようとして無理を重ね、疾患を悪化させ、挫折感を募らせてしまう人もいるのですが、長嶋さんもそうでした。 そんな「生きづらさ」を抱える長嶋さんは、30歳の時にセルフヘルプクループとの出会いによって障害年金の存在を知り、年金を請求(申請)します。受給が認められた長嶋さんは、障害年金を基礎的収入に据え、アルバイトで上乗せして生活するというという働き方を始めました。 するとどうでしょう、精神的な負担感が軽減され、仕事を2年ほど継続することができ、自分なりの暮らしのスタイルが築けていることに、充実感さえ覚えるようになりました。 長嶋さんのようなかたちで「生きづらさ」を乗り越えるのも立派な「自立」です。障害を抱える人を対象とする経済的支援の制度は、このように、本人の気持ちを前向きに変え、社会へ、そして未来へ踏み出すことを後押しする「起動装置」として使えるのです。 そしてたくさんある制度のなかでも、とくに強い味方となってくれるのが障害年金です。障害年金は、自ら請求しなければ受給できませんが、そのことを知らず、利用できないままになっているケースがいまだに少なからずあるのは、真に残念です。 いざというときに使える社会保障制度がある……そう知っているだけでも人は安心できます。この機会に少しでも制度を身近に感じてもらえたら、そういう思いを込めて、後編記事では障害年金制度のあらましをご紹介します。 *この記事のエピソードは以下の文献から引用しました。 青木聖久『第3版 精神保健福祉士の魅力と可能性 精神障碍者と共に歩んできた実践を通して』(やどかり出版、2015年)190₋193、221ページ 後編〈病気・障害で困っていれば若くても「年金」がもらえるかも…複雑な「障害年金」その初歩がこれでわかる!〉へ続く。
青木 聖久(日本福祉大学教授、精神保健福祉士)