【野球浪漫2024】ロッテ・国吉佑樹 逆境を知る「いろいろな人が僕のピッチングを見てくれている。本当に幸せ」
育成からの昇格
育成からここまで来た。09年10月26日に行われたドラフト会議の育成としてのプロ入り。 「もちろんドラフトにかかるのが一番ですが、自分の中では育成でもプロ野球でチャンスをもらえるならそれでいいという思いがあった」と言う。励みもあった。ジャイアンツで育成からセットアッパーに定着した山口鉄也投手が08年に、同じくジャイアンツの松本哲也外野手が09年に育成選手から這い上がり、新人王に輝いていた。国吉もまたその背中に夢を頂き、プロの門を叩いた。 最初は順調だった。1年目の5月には二軍戦で投げられるようになった。すべてが順風満帆にスタートしているように見えたが突如、右肩に異変が起きた。力が入らない。 「高校時代は肩をケガしたこともなかった。試合で投げて次の日、起きたら肩を上げると痛いという感じだった。最初はそのうち治るだろうと我慢して普通に練習に入っていたのだけど、あまりにも投げることができずに痛いのがばれてストップがかかった。怒られたのをよく覚えています」と国吉。 この年、それ以降、投げることなく二軍戦5試合の登板で一年が終わった。一方で同じ新人としてドラフト1位には筒香嘉智内野手がいた。地元・横浜高からスター候補生として入団した男は常に強い光を放っていた。いつも注目の中心にいた。地元は同じ関西。その名はずっと前から知れ渡っていた。中学時代までは何度も対戦したことがある選手と今度は同じチームでプレーができる楽しみとこの男が放つスター性に強い刺激を受けた。 筒香のデビューは鮮烈だった。2010年10月5日のジャイアンツ戦(横浜)でデビューをするとその2日後の10月7日のタイガース戦(横浜)ではプロ初本塁打を記録した。そのホームランをリハビリ中の国吉は映像で見た。同じ年の選手が一軍の舞台で放った強烈なアーチが目に焼き付いた。もどかしい日々。 「刺激をもらった。自分もあの舞台に行きたいなあと思った」。ただ、リハビリ中で投げたくても投げることはできない。黙々と体を鍛えるだけだった。走って、ウエート・トレーニングをしての単調な日々。あのときはつらかった。しかし、32歳になった今、振り返るとあの日、投げることができずにトレーニング中心の日々を過ごしたことが今日に生きていると思える。 「逆によかった。土台ができたし、トレーニング方法も学んだ。身体のことも勉強になった。ウエート・トレーニングも積極的に取り組んだ。いろいろな人にいろいろなことを学んだ。間違いなく今のベースはあのリハビリの日々」と国吉。 一時は手術の選択肢もあったがオフには痛みも引き、2年目の春季キャンプ明けには普通に投げることができるまで回復した。5月には二軍ローテの一角に食い込むようになると7月のオールスター休みのタイミングで横浜スタジアムにて行われていた一軍練習に呼ばれた。 「一軍の首脳陣の前で投げるのは初めてだった。いいアピールをしたいとブルペンに入ったら、監督をはじめ、すごい数の人がいて緊張した」と国吉は当時を振り返る。 それは誰が見ても支配下登録に向けた最終確認だった。若者は必死にアピールをした。無我夢中だった。そしてついに7月29日に支配下登録をされた。そこから今に至る国吉の物語は始まる。1年目は右肩を痛めた。しかし、それは身体の土台を作る大切な期間となった。その後、自慢のストレートが打たれ行き詰ったときもあった。カットボールを覚え、幅が広がった。マリーンズ移籍後の22年には投げ方が分からなくなるほどのイップスのような症状に陥って苦しんだときもあった。このときも身体のメカニックを一から見直し、新しい自分を作ることに成功した。決して順風満帆ではない。いつも逆境が襲い掛かる。しかし、そこから逃げずに向き合い克服することで成長をしていった。 そして今がある。24年はマリーンズの貴重なセットアッパーとしてマウンドに君臨し22試合連続無失点の球団記録を樹立するとその記録を24まで伸ばした。偉大な記録である。「記録を達成して本当にいろいろな人から連絡がきた。同級生、先輩、後輩。ベイスターズの人。昔からの友だち。こうやって連絡をもらってあらためていろいろな人が僕のピッチングを見てくれていることを実感した。自分のピッチングにすごいリアクションがある。応援してくれる人がいる。本当に幸せだと思った」
翌日、球場に姿を現した国吉はうれしそうに口にした。苦労人だからこそ感じることができた幸せがそこにはあった。国吉というマリーンズの誇る巨人はこれからもマウンドに立ち続ける。逆境を知る人間は強い。
週刊ベースボール